プール雨

幽霊について

伊勢物語 第二十七〜三十二段

二十七

 昔のこと。

 男が女のもとに一夜だけ通い、それきり行かなくなってしまった。朝になり、女が、手を洗う所にかけてあった貫簀(ぬきす)をよそへどけてみたら、たらいの水に自身の影が見えたので、女みずから

  我ばかり(私ほど

  物思ふ人は(思い悩んでいる人は

  又もあらじと(ほかにはいまいと

  思へば水の(思っていたら、水の

  下にもありけり(下にもいたのだ

 と声に出して詠んだのを、来なかった男が立ち聞きして、

  水口(みなくち)に(水面の下に

  我や見ゆらむ(私が見えるだろうか

  かはづさへ(蛙さえ

  水の下にて(水の下で

  諸声になく(みなで声をあげるのだ、私たちも二人で泣こう

「朝になり」は原文になし。補いました。いくら何でも状況が見えづらいかなと思って。「男」の状況と心情がちょっとわかりません。二首目の歌の前に脱文があるのではないか、という人もいます。

二十八

 昔、色好みの女が男の家を出て行ってしまった。それで男はこう詠んだ。

  などてかく(どうしてこのように

  あふごかたみに(会うのが難しく/朸(おうご)で筐(かたみ)をかつぐことに

  なりにけむ(なってしまったのだろう

  水もらさじと(水ももらすまいと

  むすびしものを(固く契りあっていたのに

「あふごかたみに」は掛詞になっていて、「会ふ期難みに」に「朸、筐に」のイメージが重なります。「朸」は天秤棒、「筐」は竹籠で、四句目で「水ももらさじ」と言っているけど、竹籠なのでたよりなく水は漏れてしまう。「むすびしものを」と言っているけど、たよりない関係だったのかなとイメージできます。

二十九

 昔、春宮の母上であった女御の御殿で催された花の賀にお呼び出しにあずかり、こう詠んだ。

  花にあかぬ(花をいつまでも見ていたいという

  歎きはいつも(歎きは花を見るときいつも

  せしかども(してきたが

  今日のこよひに(今日のこの宵ほど

  似る時はなし(そう思う時はありません

 「新古今和歌集」の春の集に業平作として収められている歌。出典はこの「伊勢物語」。だから「業平作」というよりは「業平が詠んだものとして読まれている歌」という感じなのかな。「春宮の女御の御方」はのちに陽成天皇となる貞明親王の母、高子のイメージ。「賀」は長寿の祝いなので、そのまま「賀」としました。「伊勢」の流れで読むと、花に託して「男」が「春宮の女御」への切ない思いを歌い上げたように読めますが、新古今で読むと桜を愛惜する率直な歌として読めます。

三十

 昔、男がたまにしか会わなかった女のもとに、

  あふことは(会うことは

  たまの緒ばかり(玉の緒のように

  おもほえて(短く思われて

  つらき心の(そのつれない心ばかり

  長く見ゆらむ(私の心に残るのはどうしたことでしょうか

 と詠んで送った。

 「新勅撰和歌集」に詠み人知らずで収められる歌。「長く見ゆらむ」が訳しづらくて、読んだ気がしません。この「見ゆらむ」が訳しづらいです。自分のことなのに「つれない心が長く見えているでしょうか」と現在推量で訳すのも変だし、かといって、そもそもなかなか会ってくれない女に、「会っている時間はあっと言う間で玉の緒のように短く、どうしてつれない心が私の心に長く立ち現れ続けるのでしょうか」と原因を推量されても、「女」にしても困るだろうし。でも、そうしたままならないものがそのまま表れるのが、歌のいいところなんでしょう。

三十一

 昔、宮中で、宮仕えしておられる女房の方々の局(つぼね)の前を男が通り過ぎたところ、男のことを何の仇と思ったのか、女が「いいわ、そこの草葉よ。どうなっていくか見届けてやりますよ」と言った。男は、

  罪もなき(罪もない

  人をうけへば(人をのろったりすると

  忘れ草(忘れ草が

  おのが上にぞ(自分の上に

  生ふといふなる(生えると言いますよ

 と言った。それを聞いて恨めしく思う女もいた。

 「局」は部屋じゃなく、部屋と部屋をつなぐ廊下に几帳などで間仕切りをつくって、個室風にしてあるところ。その家の主人と主人の家族以外は廊下で寝起きしていたわけです。夏の暑さはともかく、冬の寒さが厳しいですよね。ですから、「紫式部日記」には中宮に仕える女房達が冬、肩を寄せ合って夜眠ったことなどが書かれています。この「伊勢物語」の三十一段はそういう局が現場として描かれています。「男」は宮仕えしてるので、昼間そういう局の前を通り過ぎることもある。でもただの局じゃなく、男が以前関係した女性の局なんですね。女は「よしや草葉よ、ならんさが見む」と語りかける。ふらふらといろんな女性に気を移していく男に「草葉」と呼びかけ、「この先どうなるか見てやるわ」と恨み言を言う。男は「罪もなき人をうけへば」なんて応える。「忘れ草」が生えると人から忘れられるとする解釈と、自分自身が忘れるとする解釈があって、後者の方が自然な感情のような気はします。でも、そうすると一首の歌として意味不明になる。「罪もない人(=男)を呪うと、ご自分(=女)が人から忘れられてしまうと言いますよ」というのと、「罪もない人(=男)を呪うと、あなた(=女)の上に忘れ草が生えて、私のことを忘れてしまうそうですよ」というの。難しい。そして、最後に出てくる「女」は局の中から声をかけた「女」じゃなくて、二人のやりとりを聞いて、「男」のことをイヤだなって思った第三者なのですね。同じように宮仕えしている別の女房が「なんて男だ」と頭に来ちゃって、多分後で噂になる。だって局って個室じゃなくて廊下なんだもん。筒抜けですわ。

三十二

 昔、関係したことのある女に、数年経ってから男が

  いにしへの(いにしえの

  しづのをだまき(織物のための糸の玉

  繰りかへし(くりかえし

  昔を今に(昔の二人を今に

  なすよしもがな(よびもどす方法があったなら

と言ったが、女は何とも思わなかったのだろうか。

 「いにしへの」は「しづ」の枕詞。「しづ(倭文)」は古代の織物。「をだまき」は織物を織るために糸を丸く巻いたもの。「いにしへのしづのをだまき」は「繰りかへし」の語を出すための序詞。実質、メッセージは「昔を今になすよしもがな」だけなんですけど、そこに乱れ模様の織物、その織物を織るための糸(そして織物からまた糸がほどかれること)、その営みが繰り返されることなど、乱れる、たぐりよせる、くりかえすなどの言葉の営みがイメージできます。

 さて、男の一代記風に歌が詠まれていくこの「伊勢物語」ですが、おそらくこの三十段前後が一番退屈なところです。六十段近くになってくると場所がまた変わったり、伊勢斎宮の物語が出てきたり、かなりお話自体が盛り上がってきます。だからこの三十〜五十段くらいをさっさと読みたい……。でも和歌だから色々、掛詞や縁語、序詞でイメージが複層的になっていて、するっと行かないです。今週は短い話だけでしたが疲れ果てました。続きはまた今度。

 お花が咲いて、いい陽気の日が続いています。これで歌でもくいっとひねることができたらいいのですけど。

芝桜
ネモフィラ

いろいろ

ついに咲き出したモッコウバラ

📚 つづく…… 🌸