自分の人生の最大の誤りといえば、「物事は事実に基づいて順を追って考えて行けば大体整理がつく」と思い込んでいたことです。
「わかり方」のイメージが貧困だった。
要するに、自分のわかり方に固執していたのです。
これは一人で勉強する癖がついている人にありがちなことではないかと思うのですけど、こういう人はまあ、頑固です。途中で人に相談しない。「いちからこつこつ」以外の対応ができない。したがって何をするにも時間がかかる。
振り返ると、一般に言う「バカ」ってことだなと思う。読書家だと頭がいいというイメージをもたれがちで、実際自分もそのように言われることが多かったのですけど、自己イメージでは基本的に自分よりバカな人がまわりにいない。
だから私には二十代も中盤になるまで、友だちがいませんでした。
でも、年を重ねる過程でうれしいことに友だちができて、やっと気付いたのです。
「あ、わかり方って色々だな」
ということに。
いちいち改行してしまうほどに、それは大変な驚きでした。
また、私は「わかればいい」と思いこんでいました。
整理がつけばいい、理解できればそれでいいと思ってました。
それだと人間関係は続きませんよね。この不徳が積み重なって親兄弟とほぼ絶縁状態になっているのですが、いつも向こうさんは私を困惑の目で見ていました。「真面目すぎる」「神経質だ」「それじゃ世の中わたっていけない」と。
世の中は確かに、わたっていけていませんねえ。
でも気付いたんです。
みんな、わたっていけてなくない?
私、日々困ってるけど、みんなも困ってない?
楽に稼いで、あまり悩みもなく、すいすいとわたっていけてる人なんか、全然、想像すらできません。単純に、稼げてる人は忙しくて時間がない、稼げてない人も忙しくて時間がない。みんな時間がない。
話がずれて参りました。
わかり方は人それぞれ、という話でした。
言語体系はばらばら。語彙のばらつき、統語法のゆるさ加減、論理的かどうか。事実を重視するかしないか。みんなばらばら。
例えば、「あ、今の伝わってないな」とわかったとき、相手の文脈を気にする人、しない人、自分の文脈を明らかにする人、しない人、その他ほぼ無限の分岐点を経て、さまざまな対応方法があり、中には「大声で連呼する」という手に出る人もいる。そして大声で連呼する人がこっちの文脈を気にしていないかというとそうでもなくて、連呼する人はその人なりに、こっちのやる気や知識の多寡を気にしたうえで「大声で連呼」という選択に出ている。
この味わい深いすれ違い。
人と二時間歓談すれば、そのときの楽しみ、味わいだけでしばらく元気でいられる。
会いに行きましょう。
しかも「会いたい」と言われたなら、ほいほい行きましょう。
そして私は意外と、ここが自分でも意外なのですが、結構受身で「会いたい」と言われるまで黙っていたりする。
三年に一度くらいはこちらから「会おうよ」と言うべきですね。
🌟 おわり 🌟