雨降り

幽霊について

愛について


「ノルウェイの森」を見てきました。超がつく有名小説の映像化なので、思い入れのある人はもちろんのこと、「昔読んだけどよくわからなかった」という人も、「受け入れがたい」という人も、その人なりに難しいところがあります。単純に「初めて見る映画として楽しむ」ことは意図するしないにかかわらず無理です。
私は二度読みました。一度目は高校生のとき。最後までそれなりに楽しんで読んだ記憶があります。死体がどんどん積み重なっていくところがちょっとホラーっぽいなと思いました。主人公も当時の自分としては見たこともないような嫌な奴で、彼の言葉が恐ろしくも新鮮だった。
大人になってから読み返すと、存外に読みにくくて困惑しました。まず冒頭の飛行機の場面をクリアするのに努力がいりました。簡単に言うと、かなり気恥ずかしい思いをしながら最後まで読み終え、読み終わったときには疲労困憊していました。
というわけで、私はこの作家の良い読者ではありません。そういう人がこの映画を見る場合、どうかというと、「大好きだ」という人よりはかなり楽に見られるのではないでしょうか。実際、始まった瞬間「いい感じ」と思い、数分ののち、「結構おもしろそう」といった感想を抱くに至っていました。
結論から言って、おもしろかったです。「仮想の日本語」といった風情の村上節が音声になると、それだけでちょっと変な感じでおもしろかった。松山ケンイチの青森なまりが気になるという人もいるようですが、あの台詞で訛ってるとかはどうでもいいのではという気がしました。70年代の東京の再現が見られたのも楽しかったし、緑の服も可愛かった。音楽がおどろおどろしくて良かったし。ちゃんとした映画だったと思います。
その上で、善かれ悪しかれ印象に強く残ったポイントが三つありました(*このあと、映画のラストについて書いています)。
一つ目は贈与の場面の全容が意図的に隠されていることです。ワタナベから直子へ贈るものの大半が伏せられているか、少ししか見られず、それに対する直子のリアクションもわかりません。直子の誕生日にワタナベはなにかLPレコード大のものをプレゼントします。彼女は喜んで「わたしに?」「あけてもいい?」と受け取りますが、この後の顛末はカットされています。ワタナベが何を贈り、彼女がそれを見てどういう表情を浮かべたか、映画の観客には謎がひとつ与えられます。
また、彼は手紙を何度も直子に送りますが、もちろんその全容は読まれません。そのとき、送り手であるワタナベの方しか映されず、それを受けとった直子がどういう気持ちで受けとったか、読んでどんな表情を浮かべたかについても伏せられています。
これによって、ワタナベが直子になげかける言動や、彼が彼女によかれと思ってやっていることが、彼女にとってどういう意味を持つのかが大きな謎として作用することになります。
このことはワタナベが直子に手紙で訊ねた、「僕が君を傷つけたのかどうか知りたい」という痛切な言葉(ここは画面に書き進められる文字が大映しになり、ワタナベの他のどんな手紙よりも重要な手紙として演出されています)と重なります。ワタナベが懸命に投げた言動は直子に届いているのか、届いたとして彼女はそれをどう受けとったのか、もしかしたら深く傷ついたのではないかというワタナベの、ほとんど恐怖とも言える不安がそこにあり、その不安を観客は共有することになるのです。
二つ目は、直子が最初から病んでいるように見えることです。
キズキが死んで、ワタナベと直子が再開したそのときから、彼女は死の世界に片足を入れているように見えます。とても不安定で、いつも目は言葉を探して細かく動き、一言発する度にまたその不安が増すといった感じで、「傷ついている」とか「悲しんでいる」というよりは病んでいるように見えます。何度かある彼女の感情の爆発の一度目、誕生日の日の体全体をふるわせた嗚咽は、「恋人を亡くした少女の悲しみ」といった型におさまるものではありませんでした。すごい声だった。
この直子を「徐々に病んで行く」と描写することも可能だったはずです。ワタナベとのやりとりを重ねながら、だんだん死の淵に囚われて行くと描写するという選択肢もあったと思います。しかし、この映画ではワタナベと出会ったときにはもう遅いという風に描いています。だから、私にはワタナベが直子の死を待っているようにも見えたし、「死にいく人間に、生きようとしている人間は何もできない」という諦観も感じました。
つまり、ワタナベと直子はキズキの死を受け入れ損なっていて、弔い方をそれぞれに間違った。そのため、二人とも回復不能なほどに傷つき、直子は死に、ワタナベは自分を見失うという話になっているようなのですが、それで良かったのでしょうか。台詞としては残された者はそれでも生きて行くということが強調されていますが、演出では死者が奪って立ち去るものの大きさに我々はただうろたえるしかないということが強調されています。
三つ目はラストについて。ラスト、大変に速度がありすぎて、ほんとにワタナベが直子の死を待っていたように見えるのはやや興ざめでした。緑が陽光の中にいて、ワタナベは薄暗いアパートのエントランスにいます。明暗対照的な二人の映像を交互に映すことで、それぞれの立ち場の違いを明確にする意図があったのだろうし、それはわからないでもありません。映画では、緑(明るい生)の方へ行こうとして行けないワタナベの今後が示されているわけですが、原作では緑もまた薄暗い部屋で薄暗いワタナベの声を受けとったのではなかったか、このとき、緑にはワタナベの居場所があらゆる水準でわからなかったのであり、「あなた、どこにいるのよ」と訊ねられたワタナベもまた、ほんとうに、自分がどこにいるか、そう聞かれることによってまざまざとわからなくなったのではなかったか。この映画の描き方だと、それまでワタナベのいた位置に今度は緑が来ると暗示されているようで、ちょっと図式的な感じがしました。私にはどうしても、ラストのワタナベ側の映像はいらなかったのではないかと思えてなりません。