雨降り

幽霊について

恐怖の対象としての身体


 
ちょっと前、「ブラック・スワン」を見ました。
おもしろかったです。
先行テクストもあるし、また大抵の人は何らかのかたちで経験してもいる、よく見知った話です。多くの人は映画が始まって間もなく、主人公のニナがどんな運命をたどるかはっきりとわかってしまうと思います。その辺りは実にシンプルにつくってあって、ミステリ的な要素をすこしでも期待して見るとがっかりするかもしれません。
また、「白鳥の湖」という舞台を創出するにあたっての苦闘と一瞬の快楽と解放といった舞台ものの王道を期待してしまうと、これまたがっかりするでしょう。これはバレエ映画ではないからです。
ヴァンサン・カッセル演じる舞台監督の演出する「新・白鳥の湖」は特にどこがどうと言って新鮮味があるわけでもなく(というか全体像がわからない)、彼のニナに対する演出も精神性一辺倒で、とても優秀なクリエーターには見えない。
どうもこの映画はバレエ映画ではないようだと観客が気付かされるのは映画が始まって間もなくで、とにかくカメラ自体が動くので、ダンサーたちがどう動いているのかさっぱりわからない。特にニナに至ってはカメラがほとんど常に寄って、その不安に満ちた表情を中心に映し、カメラ自体もがたがた動いたり回ったりするので、彼女がちゃんと踊れているのか、そもそも上手いのかどうなのかもわからない。
レッスン場でターンを繰り返すダンサーをさらにカメラが回って撮る。つまり、カメラが追いかけているのはあくまでダンサーの身体であって、その踊りではないわけです。
画面もつぶが荒く、そのせいで逆に目を凝らして見てしまうし、技術的にどういうことなのかわかりませんが、アニメ的な、かくかくした動きや、逆に妙に引き延ばされた動きなども入るので、ついつい全部集中して見てしまう。
見ていて抜きどころが全くない。
「すでに知っている話なのに目が離せない」のがこの映画の最大の特徴です。
物語は思いっきり大胆に型通りに展開させ、ニナ以外の人も型にはまった描かれ方をします。それは、ニナの幼さを表してもいるようです。「性的に成熟してないと黒鳥は踊れないぞ」と「指導」する舞台監督の薄っぺらさには驚きますが、まさか本当に演出の根幹がそうであるはずもなく、舞台初日の幕が無事開くところを見ると、ニナが受けとれた言葉がそれだけだったということなのでしょうし、母親にしてもそうでしょう。怪物のように、悪魔のように描かれる母親はニナの恐怖心だけを浮き彫りにします。
とにかくニナの、アンバランスなまでに幼いが切実な恐怖に寄り添う以外に手だてのない 108 分です。
ニナの最大の敵はもちろん自分の心身であり、そこに彼女は他者を見ます。舞台監督から、なぜ自分を解放しないのかと問われ、「コントロールしたいからです」と答えるのが象徴的で、バレエダンサーである彼女は、心身を隅々まで把握し、コントロールに努めます。その彼女にとり、快楽は禁忌です。
だから、モチーフがバレエ、しかも「白鳥の湖」であることには大きな意味があります。
先に「この映画はバレエ映画ではない」と書きましたが、この主人公は、抑圧と解放を同時に表現するバレリーナである必要があります。
にもかかわらず、この映画はアリバイ的にすらバレエを映し出さないのです。
その潔さに大変驚きました。
隅から隅まであらかじめ知ってる話のはずなのに、とても新鮮でした。
おもしろい映画体験をしたと思ってます。