プール雨

幽霊について

赤い星で、赤い星へ、赤い星から

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原題:The Martian

監督:リドリー・スコット

2015 年 アメリカ

ダメもとで、やってみます。

アンディ・ウィアー著、小野田和子訳『火星の人』第4章 ソル33 より

シンプルで開放的だった。

ワトニーは地球にどうしてももどりたい動機があってそれで過酷な状況と闘う……というわけではなく、火星に置き去りにされ、たまたま生き延び、そして地球に帰ることを目指して毎日仕事を続けるだけ。とてもシンプルだ。状況を確認して、計画し、実行し、また確認して、計画して……を繰り返す日々。調子が悪ければ肉体労働のみに精を出し、無理に考えない。カロリー計算をし、今日すべきことをし終えたらそれ以上動かず休息する。

NASA の職員も同じだ。ワトニーが火星で生きていることがわかると、通信を試み、救出の計画を練る。トライアルを繰り返し、実行し、失敗したらまた考えなおし、計算し、計画し、実行を目指す。

面倒がない。

問題があったらそれを分析し、対応を検討し、計画し、実行する。実行後は問題があれば再検討し、計画し、そして実行する。どうにもならないときは笑い飛ばす、あるいは寝る。

映画とちがって、現実では妙な横槍や、思いつき、いやがらせなどを含みながらねじれつつ事態が進行する。

「オデッセイ」のシンプルさは映画ならではだけれども、現実にしたい。

困っている人がいたら助けたいし、協力できることがあれば協力する。協力が必要な場面で協力するときに妙なロジックはいらない。絆とか義務とかいちいち挟まれなくても行動はできる。

生き残ったから生きられるよう努力しているときに、「なぜ」と問いかけるのは面倒だし、第一間抜けすぎる。

「オデッセイ」で爽快ですらあるのは「相談、報告、説明」の場面でも同じ。とにかく早い。現実にずっと問題を抱えている人が他人に支援を求めて相談するのは大変だ。状況を説明している最中にいちいち「なぜ」と聞かれる。「なぜ」と問いかけたい人は問いかけてもいいけれど、時期を見てほしい。今、喫緊に話し合いたい問題があり、場合によっては命などに関わるケースでもあるというときに、「なぜ」とかいちいち間抜け過ぎるし、それに答えるのは一苦労だ。それだけで一晩とられるかと思えば、もう誰にも相談しないと思ってしまってもしょうがないだろう。

この、率直さ、速度、生産性の高さは原作の特徴でもあって、映画ではその部分を思いっきりクローズアップしていて、それもまた清々しい。

ワトニーが地球に残してきたであろう友人や家族の話はほとんど出てこない。彼が最後のミッション実行前に残した手記の中に「よろしく」と出てくる程度だ。それがいい。仮にワトニーが天涯孤独だったり、友人がいなかったり(とてもそうは思えないけれども)したところで、だから何だということもない。ただ生き残って、生き延びて、帰る。周りも、協力する。

通信手段なし、他の人々は自分が死んだものと思っている。そして現在いるのは 31 日だけもつように設計されたハブ。火星に一人取り残され、しかしいくつかの偶然が重なり生き残ったワトニーはソル 6(ソルは火星で言う一日)の夜、そのことをまずじっくりと確認する。

原作では「もし酸素供給機が壊れたら窒息死。水再生機が壊れたら渇きで死ぬ。ハブに穴があいたら爆死するようなもの。そういう事態にならないとしても、いつかは食糧が尽きて餓死する」「ああ、まったく。最悪だ」と記してこの日のログを終えている。頁をめくれば次の日になっている。映画でもこの場面ではワトニーが自らの状況を整理し、いかに最悪な状況かひとつひとつチェックしている。印象的なのは、憔悴しきったその横顔(なにせ危うく死にかけた上、火星に置き去りにされたのだから)と、彼が命からがら収まったハブの頼りなさだ。外は嵐。砂嵐の中佇むハブは、いつどこかに穴があいてもおかしくない、そんな音を立てている。原作では、私達が頁をめくる動作の一瞬の中にあった、空白の数分がじっくりと描かれていた。映画ではワトニーが考えぬいて計画したことの全てを聞けるわけではなかったけれども、過酷な状況が刻まれた彼の肉体(場面が進むごとに痩せていく)や、赤い星の上でゆっくりと歩く後ろ姿、風に怯えながらじっとしている姿などを「見る」ことができた。原作では「聞く」ことができた。

ヒット小説の映画化として、大成功ではないかなと思います。

 

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