プール雨

幽霊について

いかにして 2018 年夏をやりすごしたか(4)読書日記

日記帳から読書メモを抜粋します。

6 月 27 日 いとうせいこう星野概念『ラブという薬』(リトル・モア

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国境なき医師団の取材でギリシャに行ったときに医師団のスタッフが難民キャンプの人たちに対して、もはや尊敬の念といってもおかしくないような態度で接するのを見たんだけど、あれはまさに傾聴と共感だった。日本だと、困っている人に対して「助けてあげる(原文傍点)」 って態度になりがちなんだけど、そういうのが一切ない。子どもとか女の人が来たら立って席をゆずるとか、そういう行動のひとつひとつが苦難に対する共感なんだってことが、すごく伝わってくるの。

いとうせいこう星野概念『ラブという薬』(リトル・モア) p. 174、いとうせいこうの発言

いとうせいこうの主治医、星野概念の「確かにカウンセリングって、患者さんの思考のスピードを落とすことですね」(p. 222)という言葉も印象的なこの『ラブという薬』には、「精神科にかかること」についてのきわめて具体的な助言もあり、(上記のように、日本語圏に生きる私たちの)公共性を考える上で重要な示唆もあり、対談ならではのふらふらとした往還もあり、とても楽しい一冊でした。広く読まれていってほしいです。

7 月 1 日 東京新聞朝刊 平田オリザ「つれづれ」

私は愛国心が強い方だと思っていますし、国立大の教員でもあります。なので、そういった資金を使って、過去の日本の植民地支配の実相や、現在の日本社会が抱える重苦しい雰囲気を明晰(めいせき:原文ルビつき)に描く作品を創り、海外に発信し続けていきたいと考えています。過去にきちんと向き合う姿勢を示すことが、日本に対する信頼を高めると考えています。また、現在の日本社会の混迷を描くことが、未来の持続可能な社会をつくることにつながると考えています。私は芸術家の良心と学者の良心に従って日本に貢献したいと思います。もちろん人類全体にも貢献したいと願っていますが。

カンヌで『万引き家族』が賞を取って、日本社会の恥部を映画にしたと嫌悪感を示す人々がいて、さらに、文化庁からの出資があったということについて批判する人々もいて……この辺りの理路はよく理解できないので記述できません。引用記事はちょうどそのころに出たものです。

フランスのラジオ局が平田氏に、日本では極右政権のもとで芸術活動が抑圧されているのではないか、あなたはどうしているのかというインタビューを行った、その返答です。

万引き家族』に対するナイーブな反応に対しては、やはり、貧困を問題視すること、解決しようと行動を起こすこと自体に嫌悪感を示す構造があるんだなと思いましたし、権力と距離を取る構えがないままに社会生活を送っている人が一定程度いて、彼ら彼女らにとっては政府の意向を受け入れる以外の言動は恐怖や嫌悪を覚えるようなものですらあるのだなあと、そういうことを考えました。

でも仮に「国のため」というのなら、日本語圏からその圏外で見られる映画がリリースされて、受け入れられ、評価され、愛されるというのはプラスに働きこそすれ、マイナスにはならないだろうに、と思います。

日本語がポップさをまとおうとするあらゆる動き(国外のコンペに出ることなどから始まって、国外からの提言を受け入れ考え検討することなどまで)を切実に嫌う人達がいるのはわかっています。でも、日本語圏以外の人とも共有できる価値観を探っていかなければ逆に日本語は痩せ細ってしまうんじゃないでしょうか。

7 月 8 日 朝日新聞朝刊 宮台真司「オウムを生んだ社会は今」(聞き手 高久潤)

オウムという存在や事件自体は日本社会を大きく変えてはいません。むしろ逆です。その後の報道などでも明らかなように、この社会に絶望して教団に入ったのに教団の中で繰り返されていたのは、今風にいえば、教団内での地位をめぐる、麻原彰晃の覚えをめでたくするための「忖度」競争でした。教義や対義は、どうでもよかった。日本社会の特徴とされる構造の反復です。その意味ではオウムはきわめて陳腐な存在です。

だからこそ危ないとも言える。不全感を解消できれば、現実でも虚構でもよい。自己イメージの維持のためにはそんなものはどちらでもよい。そうした感受性こそ、昨今の「ポスト真実」の先駆けです。誤解されがちですが、オウムの信徒たちは現実と虚構を取り違え、虚構の世界を生きたわけではない。そんな区別はどうでもよいと考えたことが重要なのです。

 歴史修正主義の方々もまさか本気で「南京事件はなかった」とか「ホロコースト事件はなかった」とか言っているわけではないだろう、どういう気持ちなんだろうと長年ぼんやり思っていたのですが、そういう方々が「現実と虚構を取り違え」たわけではなく、現実と虚構の「区別はどうでもよいと考えた」とすると筋が通るなあと思います。

また、これとは全然水準の違う話で、たとえば「この社会に絶望」して、新興宗教の道に入った人が、まさに「この社会」のまねごとのようなことをそこで繰り返してるのを見ると、「どうなってんの」「そういうのが嫌だったんじゃないの」って苛立ってしまいます。

この「どうなってんの」には「真理や真実を切望してたんじゃなかったの」という意味が含まれていて、そうなってくると、「そもそもなんでそんなでたらめな文言に惹かれちゃったの」とも思うわけで、でも「不全感を解消できれば」、でたらめでも何でもいいと考えたとすると、やはり筋が通ってしまいます。

私は身近な親族に歴史修正主義者がいるので、自分の不全感を解消するためにでたらめをまき散らす営為がすごくリアルに哀しいし、腹も立ちます。

事実だろうとでたらめだろうとどっちでもいい、オレは自分が快適な方を選ぶ、と思っている(であろう)彼と今後、言葉のやりとりで何らかの合意に至ることは可能でしょうか。今のところ、不可能なように思えます。元々、説得しようと思っていたわけではなく、「すこしはましな暮らしをしてほしい」とか「幸せになってほしい」と思っていただけなのですが。

 

突然ですが、夏の読書日記はここで終わっています。

日記帳によればこの後は、なぜか辞書を通読している……。辞書を通読して、8 月が終わっています。

時々仕事で日本語の古典を読まなければならないのですが、あまり古語の能力が高くないので、これがほんとに大変で。なにせ全部調べなければならないので。でももう、年も年だし、今更その能力が上がることもないだろうなあとあきらめて、いちいち調べていたのですが、さすがに辞書を通読したら多少やりやすくなりました。いちいち調べるのは変わらないにしても、何をどう調べれば良いかがぱっと思いつくのは便利。いやいや、地道な勉強っていくつになっても成果があるものですね。自分に驚きました。

それはいいとして、そろそろ夏の大反省大会も終えて、通常業務にもどりたいと思います。

2018 年春は花粉症で息が止まり、夏は酷暑で息が止まり、私の呼吸器系統はずたぼろで、頭に来て思わず 2018 を素因数分解してやったら、奴はなんと、約数が 1 とそれ自体を入れて 4 つしかなく、あっという間に終わってしまい、「2018 よ、お前はそういう数字だったのか」という感慨がわいたので、まあ、許してやろうと思います。

 

とにかく、この夏考えていたのはそんなことです。

思考のスピードを落とそうと思っていました。

早く、早くと煽るものは詐欺と見込んで遮断しようとすら思ってました。

自分の(言葉の)公共性について考えていました。

せめてもう少しましなことを言いたいと考えていました。

苦難とともにある人に敬意と共感を伝えるのは無理でも、そういう構えでいたいと思います。

苦難とともにある人のことを面倒だと感じる人の公共性を疑っていました。

今も疑っています。

長年、みんなに幸せになってほしいとか頭の隅ではどうしても思ってしまい、それが元で失敗することもありましたが、その気持ちを頭の真ん中に持ってきてもまあ別にいいんじゃないかそれくらい、と思いました。

 

 

おわり。