プール雨

幽霊について

「紙の月」を見て

お大尽シーンが続く辺りできつくなって、隣の人の時計を盗み見た。絶望した。きつい。大島優子小林聡美が心の支えだった。大島優子が「ありがち」といったとき、私の彼女に対する敬意は最大値を示した。小林聡美はまるでヒーローのようだった。いえ、終盤、確実にヒーローだった。小林聡美演じる隅と宮沢りえ演じる梨花の対峙場面があって、そのあとの梨花の行動には興奮した。わあ! わあ! となった。それまでのぐしゃぐしゃはぐしゃぐしゃのまま、そうだ、行っちゃえ、行っちゃえ! と思った。そこで終っていたら、「おもしろかったー」で済んだかもしれない。だけど、その後、もう1シークエンスあって、そちらはさっきの彼女の行動とは理屈が違っていた。「お話」として筋が通ってしまった。それが不可解でぼんやりと考えながら家に帰って、自転車を駅に忘れた。駅から家までは歩くと40分かかるのだ。翌朝急いで取りに行って(24 時間超えると追加料金がかかるから)、自転車を見つけたら輝いて見えた。疲れた。それから数日経って、デパートを歩いて、梨花の気分になってみようと想像をめぐらした。多分、欲しいものがあったわけじゃなくて、何か買ってみたかったんだろうなとか、だれかを好きになってみたかったんだろうなとか、考えた。でもやっぱり、あの映画に「贈与と返礼」の問題を絡めたことで、映画のランクが一つ落ちちゃったように思えてならない。それこそがあの映画のテーマで、梨花があの大学生に貢いでしまったのは、彼女が人になにかをあげる、捧げるということをあのような形でしか知らなかったからで、その構造自体をはっきりさせるためにラストの返礼シーンがあるんだろうけど、でも、映画の真ん中はそういう構造で語られてない。
この映画に魅力があるとすればそれは、「因果」では語らないところだと思う。梨花が大学生と恋に落ちた理由は描かれない。きっかけはもちろんあるけれども、長々とどういう理由で彼に惹かれたとか、そういうことは語らない。ただ、振り向いてしまい、手を繋いでしまった。最初の横領場面にも、次の場面にも、そもそも彼女の蕩尽について、理由なんかは描かれない。描かれなくて良かった。理由を描くと合理化されてしまうからだ。合理化されると、映像では正当化されたように見える。それでは梨花が被害者になってしまう。
基本的にすごく筋の通った話なんだと思う。構造はがちっとあって。与えて、返してもらう。与えるということは、相手を自分なしでは生きていけないと思わせること。誰かに「あなたなしでは生きていけない」と言われたい。そういう女性の物語だ。
でも、文体がそうじゃなかった。そして、私はこの映画の主題ではなく、文体の方に魅力を感じた。
ふらっとのぞいた化粧品のカウンターで、梨花はさしたる理由もなく浪費をする。以前からほしくてほしくてたまらなかったというわけではない。少なくともそうは説明されていない。ほんとうにふらっとのぞいて、言われるがままに買ってしまう。そのとき、最初の横領をする。普段、私達を律しているロジックとはふっと違うところに踏み外してしまう。そのだらしなく、気持ちの悪い現場を見せられてぞっとした。
冒頭から梨花が嫌いだった。もちろん、あの一万円に触れてしまう指がああなる前から想像できる程度に、私にも踏み外す機会はあると思われるからだ。でもそれ以上に、ああ、この人が同じ職場にいたらちょっと嫌だなと思った。「ありがとうございましたー」「どうも」といったお礼の発音が気持ち悪いのだ。からっぽで。あの声、ぞっとした。