プール雨

幽霊について

寂しい町の弱いあの子と優しい幽霊

 
この映画の主人公は毎日礼儀正しく、「普通」に過ごそうとしながら、内心では怒りが渦巻いていて、始終ろくでもないことを考えている。
 

(映画の冒頭近く、ろくでもないことを考えるアンナさん)
 
冒頭 15 分くらいで、彼女の考えるろくでもない言葉が 2 つも挟まれるので、その後基本的に無表情で通り一遍の言葉を口にするこの子が何を考えているか、はらはらさせられる。
彼女は夢を見る。自分の身体に苦しめられ、自分の言葉に苦しめられる彼女が夢を見るのは当然で、そこでしか痛みや暴力から自由になれないからだ。彼女がいつでも外に気持ちが向いているのはその夢のためだ。それは彼女の夢の材料であり、入り口になる。
同時に彼女は生身をもった他人が怖い。ろくでもない自分を知られてしまうから。自分とは違い立派で、善良で、正しい人々は怖い。触れ合いを切望してもいる。自分のことを好きでいてくれると確信が持てる相手と触れ合いたいと願っている。
そんな彼女が療養のためにある町を訪れる。そして、まずは夢の世界にもぐっていく。そこでゆっくりと、ひとりぼっちの幽霊と「なぜかはわからないけれど、あなたが好きだ」と語り合う。「あなたが好きだ」と口にし、抱きしめる、そういうレッスンを重ねていく。怒りは避けられない感情だし、うまくすれば高潔さにつながる場合もあるけれど、やはりそれだけでは大人になれない。怒りをやりこめたりごまかしたりするのではなく、それを癒して自由になる方法が、ここでは示されている。
印象深いのは、現実に彼女が出会うおばさん夫婦が、最初から彼女のことを「行儀も良いし、お手伝いもできる、良い子」と評してくれることや、彼女にひどい言葉をなげかけられた信子が言い返した言葉がきちんとした言葉であったことなどだ。
つまり、アンナは孤児で、療養が必要な身体なのだが、今現在彼女がいる場所は全然悪くないのだ。周りが彼女に気を使っていて、その中でうまくできず勝手にじたばたしているのは彼女の方だ。アンナは実は養父母や周りの人に大きな借りがある。その借りを借りととして受け取ることが出来ないでいる。それが彼女の不幸だ。借りと言ってはわかりにくいかもしれない。返せるわけではないのだから。様々なかたちの、返しようのない贈り物と言おうか。とにかく、彼女が立っているその場所には実に多くの善意や愛情が働いていて、それをうまく受け取れないことが問題なのだ。
彼女がそれらを受け取るために、口にする言葉が、この映画のクライマックスでは繰り返される。
そんな風に、この映画の主人公は感情移入しにくい人物として造形されている。だがそんな彼女が夢に深く潜っていこうとし、実際にマーニーと時間を重ねたり、うまく重ねられなかったりしながら過ごすひと夏は、とても正直に描かれている。とっつきにくい、欠点だらけの主人公が自分の怒りを癒やしていく過程がゆっくりと描かれていて、個別具体的でありながら、誰にも伝わりうる、素敵な映画だと思う。
また、感情移入しにくい主人公ではあるが、きわめて現代的で、多くの人が身に覚えがありそうな問題を抱えている。自分の後ろに通じている道が見えないのだ。私たちの多くと同様に。
人物同様、この監督の描く町は、それもまたとてもさみしくて、貧しい。歴史や文化が感じられない。今現在、私たちが住んでいるこの、延々普請しているかと思えば、いずれ廃墟になっても放っておかれてしまいそうな、不安定な町を描いてしまう。それを物足りないと感じる人もいるかもしれない。でも私は生まれてからずっとそういう町に住んでいるので、そこをごまかして「素敵な町」なんかに幻想を抱けない。
だからこんな風にさみしい町に、よわっちい子が住んでいて、なんとかかんとかやっていくということが信じられれば、それが一番いい。
 
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