プール雨

幽霊について

悪い夢の途中で語る

セッション [国内盤HQCD仕様]

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ブラックスワン」は恐ろしくておもしろかったんですけど、バレエもの、バックステージものとしては全然おもしろくなかった。主人公が一人でばたばたと苦しんで、全然クリエイティブじゃないので、そこの部分は退屈でした。でも、そういう映画じゃないので。
「セッション」(原題:Whiplash)もそういう感じなのかな、どうかなと思ったり、同時にわくわくしたりしつつ、映画館の良すぎる椅子に身をうずめました。開幕前に寝そうになりました。始まってすぐ目が覚めました。良かった。主人公、アンドリューの劣等感がありありと伝わってきて、冒頭のおもしろさは白眉でした。
先生に「なぜ演奏をやめた」と言われ、あわててドラムを叩き始めるアンドリュー。そして、「『なぜやめた』に対する答えがそれか」と言われる。
問われて窮してたたく。アンドリューは問われると焦って先んじて答えようとして的外れになるタイプ。
先生は先生で、「暑いな」と言って他人に窓を開けさせておいて、「なぜ窓を開けた」と相手を追い詰める、そういうことをするタイプ。すごく悪い人。
最悪の組み合わせであることが冒頭でまず示されるので、標準的な師弟ものではなく、ましてや音楽映画でもないことが予見される。
アンドリューは劣等感でぱんぱんの 19 歳で、友人と呼べる人はおらず、家族で食事をしているときに音楽を悪意なく馬鹿にされて激高してしまうし、以前から好きだった女の子をやっとデートに誘って連れ出したピザの店はムードもへったくれもないチープな店。彼女はその店で気を使って、「いい店ね」と言い、彼は気を使われていることにも気づかない。
ところが、このなんとも居心地の悪そうなレストランでのシーンが最高だった。「このピザおいしい」とまずそうなピザを食べる彼女は、大学に通いながら、なかなか友人ができないこと、嫌われているような気がすること、目標がないこと、寂しいことなどを正直に、だが控えめに話す。アンドリューは精一杯耳を傾け、目標のない大学生活についてはうまく想像できないけれども、ホームシックなのは私だけかな? と話す彼女に、「僕なんか、父親と映画見てるし」と自嘲気味に話す。そして笑い合う。この場面には様々な可能性が示唆されていて素晴らしいのだけれども、中でも素晴らしいのは、そこにアンドリューの劣等感からの解放が可能性として示されていたこと。まじめで正直でやさしい彼女の言葉に耳を傾けながら、優劣や比較の前に縮こまって、ややもすれば暴力的になっていた彼が、そこから自由になること。そして、演奏をともにする、最もそばにいる演奏者たちの音にも気づき、誰かとともに演奏する喜びに目覚めること。そうした可能性の萌芽があの場面にはあって、アンドリューが尊厳を手に入れる瞬間が見えるような気がした。なぜなら、向かい側に座る彼女が、アンドリューと同じように大学で友人ができないと悩みながらも、自分を避けているように見える彼ら彼女らの事情や内面を慮り、ゆっくりと考え言葉にする人物だからだ。二人は対比的に描かれており、彼女の姿に、アンドリューのもう一つの可能性を期待してしまうのだ。まず何よりも、人間を大事にすること。二人が向い合って笑い合う中で、アンドリューは成長していくのだろうなと思わされる。
物語はしかし、もっと想像のつかない方向へ、恐ろしく暴力的な方向へ進んでいってしまう。
興味深いのは主人公の師弟がある転落を迎えた時、そのきっかけとなる出来事は自分で招いたものだったということだ。見る者に同情すらさせてくれない。
この映画は、「解釈なんてぬるいことしてんな、バーカ!」とでも言いたげで、この映画を嫌いだという人のことは口を極めて罵り、好きだという人には「お前に何がわかる、この間抜け!」と言う。そういう映画だ。
なぜなら、話が終わっていないから。まだまだ話は続くのだ。重大で長大な話の途中で感想などを言われても、言われた方は「黙ってろ!」と反応してしまうだろう。見終わった直後、「何も言いたくない」という気持ちになった。凄惨で強烈だからというのもあるけど、何より、「話が終わってない」からだ。
この映画のラストについて、緊張感がピークに至ってはじけて、そして祝祭が訪れるといった見方をする人もいるだろう。私はとてもそうは思えない。地獄はまだまだ続くのだ。アンドリューが、そしてフレッチャーが劣等感を起点に考え行動するのをやめない限り、彼らはイニシアチブの取り合いを延々続けることになるのだ。
あの、ひとつも楽しくないドラムの音がまだするようで、不快だ。