プール雨

幽霊について

師岡カリーマ「謙遜は自分だけで」(2019 年 4 月 13 日 東京新聞朝刊「本音のコラム」)より

どこの国にも組織にも、無理して維持する必要のない、あるいはなくなった方がいい習慣や伝統がある。たとえば日本の場合、親が子の代わりに謙遜する文化はなくなってもいいと思う。

 子は親の所有物ではない。小学生でも幼稚園児でも、独立した人格と自尊心を持っている。それを人前で親がけなしたり軽んじたりするのを見るといつも気の毒で胸が痛む。

親が「いえ、うちの子、ほんとに、なにをやらせても今ひとつで」なんて言って、相手が「そんなことないですよ、立派ですよ、(子にむかって)ね」と応じるといったことはほんとに日々、よくあることです。 

このとき、親側は「そうは言っても私はあなたのことが大事だよ」というメッセージこみで子のことを軽んじて見せるふるまいをしているし、聞かされている相手も「そうは言っても、自分の子が世界でいちばんかわいいですよね」という言外のメッセージを送りつつ応答するのですが、これを子が受け入れていくのは二重三重にハードです。親が自分のことを恥ずかしく感じているという言葉を耳にするだけでなく、そういう言葉が交わされる世間というものを知っていかなければならないからです。この子が、自分もその場所で生きていくとすれば、まずは自分と身内を恥じるポーズをとることにまつわる仕組みを学ばなければいけないことになります。また、そのとき世間に向かって言う言葉自体は単なるポーズであって、親の言葉の裏にある真意こそを選択的に受けとめ(ひどい言葉は意味がないものとして聞き流し)、最終的には親と同様のふるまいを身につけ世間からうまく受け入れられていくことに感謝しなければならない。

そうしたことが「当たり前」と認識されている社会で生きるのは大変です。

 

子にとってみれば、やはり親の言葉は重く、「親が自分を恥じている」とつきつけられる経験は強烈で、後で「ほんとはそんなこと思ってないよ」と言われても、そのとき傷ついたことは印象として、あるいは身体感覚として残ります。

また、たとえば自分で「ばか」とか「なにひとつまともにできない」とか、そういった言葉を虚空に向かってでもつぶやいてみると、その瞬間「むかっ」としていることがわかると思いますが、人を傷つける言葉はやはり口にしただけで、書いただけで、語り手をも傷つけるもので、たとえば「うちの子はどうしようもない」と口にすることの不快感はばかにできないものがあります。そう繰り返しているうちにほんとに子のことを軽んじるようになる、そういうこともあるんじゃないでしょうか。

これは自分自身に関しても言えることで、「私ばかだから」と言いながら相手を攻撃するという行動を時々見かけますが、「私ばかだから」と繰り返し言っているとその瞬間その言葉に傷つくのは自分なわけで、そのうち心底自分が嫌になってくる、そういうこともあると思います。

話を元にもどすと、ややこしいコミュニケーションを自分より立場などが弱い人に対して強要するのは、ひたすら事態がややこしく、そこにいる人全員が不快に、そして不幸になるだけなので、その仕組みにはまらないようにし、仕組み自体を解体していくのがいい。叔母は孫たちのことを人前で大絶賛して幸せそうだし誇らしげ。孫たちも褒められて幸せそうです。それに実際いい子たちだし。幸せでいてほしい。