むかし、ウェブ上の質問サイトで、留学生の方が「『骨身に堪える』という書き方は『堪』の用法としては間違いなのではないか」といった質問をされていたことがあって、「どうやって答えたらいいんだろ」と思いつつ見当がつかなかったということがありました。以来、たまに、実際相対して質問されたらどこから考えてどう答えたらいいのかなあと時々思い出していたのですが、今ふと検索してみたらその質問自体を探し当てられませんでした。
何度か思い出しているうちに記憶の中で質問内容が変わっちゃったのかも。
「どうやって答えたらいいんだろ」というのは、「相手は勉強中の留学生なのだから、多分誤用であるということに関して結論は出ていて、それでも何かひっかかっているというか、どういう意味での誤用なのか、どうしてそういう誤用が生じるかということの方に興味があるんじゃないのかなあ、だから、『そもそも』といった話あるいは、『いえす』といった単純な回答はすっとばして、何か彼あるいは彼女の思考にすっと補助線を引くようなことが言えたらいいんだけど、自分がどういう視点に立てばそういうことが可能かわからないなあ」ということです。
確かに自分で「そうですね、誤用です」と口にしてみたとき、ちょっとかすかなためらいが生じる。このためらいをその留学生の方も感じたのではないかなと思いました。
それで、このためらいはどこからくるか、すこし考えてみました。
例えば家庭用、学習用の国語辞書や古語辞書を引くと、「堪こたえる」と「応こたえる」は別の語として立項されていることが多く、意味用法の違いというだけでなく、語として別だという認識があります。『広辞苑』だと次のようになっています。
こた・える コタヘル【堪える】〔自下一〕文 こた・ふ〔下二〕(室町時代頃からヤ行に活用した例もある)(応ずる意から転じて)①堪たえる。こらえる。我慢する。②その状態を維持しつづける。保つ。
こた・える コタヘル【答える・応える】〔自下一〕文 こた・ふ〔下二〕(室町時代頃からヤ行にも活用)(「こと(言)」を合わせる意)他からの働きかけにぴったりと応ずる。①他人の言いかけ・働きかけに対し、言葉を返す。返事する。回答する。反応する。②報いる。報ずる。③他からの作用に対して、満足を与えられるだけの十分な行動を取る。④刺激を身にしみて感ずる。深く感ずる。⑤問題に解答する。
(用例を省略しました)
この項目の立て方、説明の仕方は『日本国語大辞典』でも基本的に同じで、これらからわかるのは、「こた・える コタヘル【堪える】」の用法が「こた・える コタヘル【答える・応える】」から転じて生じたもので、ちょっとわけて考えた方がよいということと、現代日本語では「骨身にこたえる」を漢字で書くとすれば「応える」が標準的だということ。*1
実際、PC上で文書をつくっているときに「ほねみにこたえる」で漢字変換すると「骨身に応える」で出ると思います。語の歴史から言っても、現状の日本語の環境から言っても「骨身に応える」でよい、と結論は出ています。
でも、そもそも、身の回りの用例を見るとひらがなで書く場合が多く、私もそうです。なんとなく、平仮名の方がぴんと来る。和語なので当然なのですけれども。そもそもそうした、平仮名で表現するのがいちばんしっくりするような和語「こたえる」の世界があって、それで、これをあえて漢字で表そうというときに、「骨身に応えた」だとちょっと違和感があって「堪えた」にしてしまう、ハードさを表したくて、そういう用字をしてしまうというのがありそうな話だなと思います。
ここで、「堪」の字についてすこし確認してみます。
漢和辞典にはおおまかにいって二種類あって、和文脈寄りの解釈を示すものと、漢文脈寄りのものとで、手に入りやすいものだと三省堂の『漢辞海』なんかは漢文脈寄りだと思います。学研の『漢和大字典』とか。『漢和大字典』では「堪」の読みと語義は以下のように説明されています(太字は訓)。
コン(コム)呉音 カン(カム)漢音 タン 慣用音
① (動) たえる(たふ) 重さ・圧力・楽しみ・つらさなどをがまんする。持ちこたえる。類 克。「人不堪其憂=人はその憂ひに堪へず」〔論・雍也〕
② 「堪輿 カンヨ」とは、天と地のこと。また、天地の神。
『漢辞海』もそうなんですが、そもそも、「こたえる(こたふ)」という和訓を項目としてあげていません。漢文脈では用例が(ほとんど)ないということなのでしょう。
でも和文脈だと用例があります。
日本語における漢字の用法という観点で編集されている新潮社の『日本語漢字辞典』だと、以下のように読みと語義が説明されています。
カン 漢音・コン 呉音・タン 慣用音 [m] たえる(たへる)・こたえる(こたへる)・こらえる(こらへる)・たまる
①たえる。ア 負けないで我慢する。「貧苦に堪える」 イ 行う能力がある。「任に堪える」 ウ わざわざするだけの価値がある。「鑑賞に堪える。聞くに堪えない」
②こらえる・こたえる・たまる。 何とか我慢する。「堪忍・不堪・堪え性・持ち堪える・堪えられない(=我慢できないほど気持ちがいい)・堪ったものではない・堪り兼ねる・居た堪れない」
③すぐれている。習熟する。「堪能 タンノウ/カンノウ・堪否 タンピ/カンピ」
④(「タン」と音読)満足して飽き足りる。「堪能・堪念」
(一部、引用するにあたって、用例を省略しました)
というけで、いずれにしろ、「堪」の字は「重さ・圧力・楽しみ・つらさなどをがまんする。持ちこたえる」というイメージでよいようです。だから、「ああ、ハードだ」という意味の「骨身にこたえる」にはやっぱり「堪える」では合わないということになります。
こうなってくると、和語「こたふ」の幅の広さが気になってきます。
『日本国語大辞典』に掲載されている用例を一部引用してみます
- 答(こたへ)ぬにな呼び響(とよ)めそ呼子島佐保の山辺を上り下りに (「万葉集」1828)……【答】
- 手をたたき給へば、山彦のこたふる声いとうとまし (「源氏物語」夕顔)……【答】
- 言として酬(むく)ひざるは無く、徳として報(コタへ)ざるはなし (「日本書紀」)……【報】
- あかつきの嵐にたぐふ鐘の音を心の底にこたへてぞ聞く(「千載集」1149 西行)……【徹】
- 兄は暑いので脳に応(コタ)へるとか云つて (「行人」漱石)……【徹】
- 梅がつぼの城え押こみ給ひければ、城寄出てふせぎたたかうと云供、何かは以、こたゑべき (「三河物語」)……【堪】
- 大粒な雨にこたえし芥子の花 (「曠野」三・初夏)……【堪】
各用例の後に「……【 】」のかたちでつけたのが、漢字に飜訳するとしたら何か、と私が考えたものです。6、7 以外はすべて「応」で足りるのですが、あえて限定するとしたら、ということです。
1〜5 を読むと、和語「こたふ・こたえる」は、基本的に、何か外からの働きかけに対して応じることを表すものとして考えてよさそうですし、6 や 7 も他からの働きかけ、圧力に対して、受ける側の忍耐や我慢といった要素は加わるものの、原義的には同じ語と考えてよいと思います。
その、外からの働きかけが単なるあいさつやちょっとした物音なのか(答)、恩や知識など、何らかの情緒あるいは論理的な反応を起こさせるような重いものなのか(報・徹)、またあるいは身心に圧迫感をもたらす過酷な気象条件や重さや圧力なのか(徹)、そこに幅があって、それらを日々私たちはすべて「こたえる」の一言で済ませているのですけど、これらを漢字に飜訳する場合は、漢字の意味に合わせて、この用例は「堪える」ではヘンだとか、これは「徹」がベターだとか、そういったことが生じてきます。
漢語「応・答・報・徹・堪」のそれぞれの世界と、和語「こたえる」の世界とが微妙に重ならない、そして、和語「こたえる」の中でも、原義から転じて生じた「我慢する」という意味の「こたえる」がすこしずれた用法をもたらしたり、といったことが「骨身に堪える」という「誤用」を生むのでしょう。「骨身に堪える」と書きたくなる気持ちは想像できますけれども、「骨身に堪える」と書いていると「堪えられない」がうまく使えなくなるといった影響が出るのではないかなと思います。これをひらがなや「応える」で書きたくない人には「強い影響を受ける」という意味の「徹える」がおすすめです。
おわり