プール雨

幽霊について

下書き大放出

ちょこっとメモをブログの「下書き」に置いておいて、「後でちゃんと書こう」なんて思っても「後で」はやってきませんでした。下書きは何週間も何ヶ月も、時には何年もそこにありました。この辺りで諦めて、放出して、きれいな体になりたいと思います。 

f:id:poolame:20190929173153j:plain
f:id:poolame:20190929173158j:plain
f:id:poolame:20190929173150j:plain
秋ですね

2017 年 4 月 24 日

ちょうど前日、「エイドリア〜ン」のことを考えていたのである。ロッキー・バルボアさんがあれもこれもそっちのけで叫んだ「エイドリア〜ン」のことを。

あるいは、『激戦 ハート・オブ・ファイト』でチン・ファイのところにシウタンが帰ってきたときのことを、『ビフォア・サンセット』でセリーヌの歌を聞きながら考え込むジェシーのことを、『マーゴット・ウェディング』で髪を振り乱してバスに乗り込むマーゴットのことを。

つまり、「帰る」ということと「流れる」ということについて、うっすらと考えつつ、『イップマン 継承』を見て、ぴたっとはまったのです。

『イップマン 継承』の感想でした。記事はここで止まっている。そして、この後何を書くつもりだったかびたいちもん思い出せません。このとき一気に最後まで書くべきでした。

 

 2019 年 2 月 18 日

タイトル:「ジェリー」

f:id:poolame:20190218130900j:plain

ジェリーは一見おとなしくて優しげだけど、プライドが高くて

J. D. サリンジャー

記憶だけで J. D. サリンジャーについて言うと、戦後『ライ麦畑でつかまえて』が大ヒットし、若者の代弁者のような地位を確立するも、人付き合いを嫌い、森の奥の一軒家に引きこもり、若くして隠遁生活に入り、ほとんど表でに出てくることはなかった……。

サリンジャーの『ライ麦』、『ナインストーリーズ』、その他グラース家のシリーズを高校のときに読んで、わりとまわりでは酷評寄りの読まれ方をして

ダイイングメッセージっぽい。

ニコラス・ホルトサリンジャーを演じた『ライ麦畑の反逆児』 の感想を書こうとしてめんどくさくなってしまったようです。

映画はおもしろかったです。サリンジャーを脱アイドル化することに成功していて、痛ましいような、腹が立つような、悲しいような、不思議な後味でした。

 

2019 年 6 月 8 日

タイトル:「おもしろくもないときに笑いたくない」

常に真顔でいたいと思ってまして、もし私があなたと相対して薄ら笑いを浮かべていたらそれはいちじるしく機嫌が良いとか、楽しいとか、そういうはっきりした理由があります。

おもしろくもないのに笑ったりはしません。

2019 年 2 月 13 日、19:17:27にはてなハイクに次のような投稿をしていたようです。

『ちいさな独裁者』("Der Hauptmann" ロベルト・シュベンケ)

 

・冒頭、脱走兵が命からがら逃げ出して、やはり脱走してきた男と二人、互いを監視するでもなく助け合うでもなく行動をともにするようになったくだりで、「あ、この二人が無言で生き残りをかけてどうのこうのしていくのだな」とか思ってしまったので、ま〜〜びっくりしましたけど、帰りによく見たらポスターに全部書いてありました。
・素朴な話で恐縮ですが、空気なんか読んでまわりに合わせて巨大な機械の一部になったりしたらもう後戻りできないんだってことにかんして人類は共通理解がもうそろそろ、いいかげん、必要。

・だって、全然、第二次世界対戦から立ち直れないじゃん。

(引用注:「今日観た映画に 3 行コメント!」というキーワードに書き込んだので、感想が 3 項目の箇条書きになっています。)

 第二次世界大戦末期、軍隊を脱走したヘロルトは、逃走中に大尉の軍服を発見した。それを身にまとい、大尉に成りすまし、偶然出会った兵士に「密命を受けている」と言ってしまう。軍規を破った兵士の裁判と処刑を一任されていると。最初はほんの二人だったが、歩を進めるたびに親衛隊の人数は増え、処刑される兵士の人数も増え、いつしかヘロルトは

すごいところで終わっている。経緯じゃなくて、自分の気分みたいなものを書きたいんだけど、と思って書くのを一旦やめてしまったようです。最後まで書いとけばよかった。

『ちいさな独裁者』で、「いつでもどこでも、こういうことに関してはみんな一緒なんだな」って思うシーンがあったのです。「こういうこと」というのは権力と笑いについてで、差別ギャグをみんなで一斉に笑うことで、暴力共同体みたいなものが強固になっていくというのかな、そういう手法や構造というのは、人類共通だなあって思ったのでした。

 

 2019 年 8 月 14 日

タイトル:「情報と人をつなぐ」

図書館はちょくちょく利用します。大体4〜5件の図書館を併用していまして、たまにこの資料はあっちの図書館、この資料はあっちの図書館と行く方向がばらけていたりすると、まあ、大変かな、と思いつつ、図書館そのものがなくなっちゃうよりはましです。

『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』に映されている図書館は「公共」図書館で、税金と寄付の両方で成り立っていて、そこがまず強いなと思います。

 

この映画を見ながら、「公共」って何だろうな、私たちの「公共」って今、どうなっているだろうってことを考えていました。

f:id:poolame:20190814073819j:plain

充実のパンフレット

f:id:poolame:20190721125215j:plain

赤くておしゃれな椅子

 これに関係して読みかけの本もあって、結論が出ていないので、ずっとここで止まったままです。

「公共の」という言葉が即「国の」という意味、用法になってしまったりすると危険だなあと日頃思っていまして、今、そこに近づいているんじゃないかと思います。「個と公」という言葉が即「国民と国」という意味で通じてしまうような世の中だと息苦しい。「私」と「国」がぴたっと接触していて、常に頭の隅に「国」があるような日本語の体系になってしまうときつい。

「公共の」とは、「私たちの」「一般の」「社会の」といった意味で、私たちひとりひとりが生きていく際に、つながりうる様々な機構を指していて、そこには「情報」や「歴史」や「文化」「芸術」、ありとあらゆることが含まれると思う。

図書館は、ひとりひとりの人とそういったものを繋ぐ役目をしていて、そのとき、どんな情報とひとを繋ぐかという議論に政府はなるべく立ち入ってほしくない。大元のところで情報を見えないようにしたり改竄したりするのは重大な権利侵害だし、そもそも「制限」だとか「監視」「管理」といった創造的でないことにエネルギーを割くのを見ているのはきつい。

あいちトリエンナーレのような美術祭に税金が投入されるのは、作家のためというよりは私たちひとりひとりのためで、情報や文化や芸術と人々を繋ぐ「公共空間」の創出と維持、調整は私たちひとりひとりの重要な役割。

と、いうようなことをつらつらと考えているだけで、まとまらない毎日です。毎日いろんなことが起こるし、基本的にこの五、六年、ずっとくらっとしているの。