この日は天気がよかったので公園を散歩しつつ、
とはいえもう冬はすぐそこだな、ということを確認しつつ、
結局朝っぱらから映画館に。
「午前十時の映画祭」で『スティング』をかけていたので、行ってきました。
フッカー(ロバート・レッドフォード)がルーサーとともにかすめ取った大金は、賭場の資金だった。死体で発見されるルーサー。やばい組織と警察から追跡されるフッカー。しかし、ただ逃げ惑うフッカーではなかった。こっちからしかけてやるぜ! あいつらからかすめ取ってやる! と、大物詐欺師ゴンドルフ(ポール・ニューマン)に協力を求めるのだった。
原題:The Sting
監督:ジョージ・ロイ・ヒル
1973 年、アメリカ
フッカーが「しょぼん」みたいな顔をするんです。
ちょくちょく、しょぼんとなっているフッカーを見ていたら、そりゃ、さすがのゴンドルフも「のりかかった舟だしな」という構えになろうというものです。
観客も「あああ〜あああ〜あ〜……あ〜あ〜あ〜! ああ……」となります。
アイドル映画でした。
真ん中にいるフッカーが悲しそうにしているから、あっちこっちから助けの手がフッカー自身気づかないうちに伸びて、そしてそんなみんなでひと仕事して、終わったら解散する。ぱっと解散。
一級のアイドル映画で、そして映画らしく、みんなの目がすてき。目と目で語り合える人々、華やかな顔の群れ、そしてフッカーの美しい走りっぷり。
満足しました。
この、みんなに心配されている若いチンピラ、フッカーが金持ちマフィアから何かをかすめ取ったり、師匠に出会ったり、いつかは若い子の面倒をみたりしながら生きていくんだろうなと思える映画全体の雰囲気に安心します。
法律とは別にある、共同体の弾性を前提として(意識せず)人々が生きていた時代の映画だなあと思います。
若い人がひとりで生きていこうというときに、その人は何もむき出しのまま社会に飛び込むわけではなく、「こういうときはこうするもの」という流儀なり文化なりが彼ら彼女らを覆っていて、彼が飛び込む先にも同様のものが当然のようにあって、その中でゆっくりとひとりになっていける。
そういう状況が、以前はあったんだなあと思います。
2017 年のヒット作『ベイビー・ドライバー』と比べると『スティング』の社会は重層的。『ベイビー・ドライバー』では男達が主人公、ベイビーの父親になろうとしては失敗して、ベイビーは結局むき出しのまま、ひとりぼっちで社会と向き合うことを選択することになります。『ベイビー・ドライバー』の社会は公正でオープンなものとして描かれているから、ベイビーがふっとそこに飛び込むことには痛みだけでなく解放感すら漂うけれど、現実はもっと過酷で、私たちは大抵、むき出しのまま、すぐそこに暴力や強制、支配といったものを感じながら、その構造にとらわれないよう緊張して暮らしています。
だからオープンで対話的な公共空間をつくっていく営みを私は貴重だと思うし、そのような活動があるだけでほっとします。私も、小さなものでいいからつくっていきたいと思う。
といっても、「言葉遣いに気をつける」とか「近所の活動に極力顔を出す」とかそんな程度のことなんですが。「楽しくもないのに笑わない」「だが元気よく、機嫌良く暮らす」「すこしでもましなことを考える、口にする」といった、そんな程度でもまるっきり無力とは思わない。
1973 年の『スティング』には広大な外部がありました。フッカーにとって、世界は広かった。2017 年の『ベイビー・ドライバー』はその外部がすぐそこに迫っていました。ベイビーの車の外側すぐに、それはありました。まあ、フッカーとベイビーでは年齢や当人たちの「こども具合」が全然違うのでそれは差し引くとしても。
今の映画を 30 年くらい経ってから見たら、どう思うんでしょう。「あのころはなんだか、息苦しかったな」とか思うのかなあ。せめて、そうであってほしいです。