プール雨

幽霊について

質問を封殺しない世界

それはどこかにあるそうです。

地球上のどこかには「質問を封殺しない世界」が成立しているそうです。

「あの雲はなぜ私を待っているの?」と問いかけると、おじいさんは「そうさのう」と言い「なんでかのう」と言うだけで特に答えてくれはしないのですが、「そんなことを考えている暇があったら働け」とか「そんなことも知らないの、常識でしょ」とか言ったりはしないそうです。

 

私はどうも人間が弱くできているらしくて、振り返るとちょくちょく絶交というものをしており、自然の成り行きとして、友だちが少ないです。

オリンピックやなんかで、有名な選手がいい成績を取れないとバッシングが起こるのはなぜなんだろう、すでに結果は出ており、その結果を受けとめるのは選手で、それ自体がハードなのに、その上なぜ、無関係な、見ているだけの人からのバッシングまで浴びなければならないのだろう、さっぱりわからない……。

とつぶやいたところ、知り合いに、スポーツは結果がすべてで勝たなかったら批判されるのは当たり前、何を言っているんだ、(お前の頭は)だいじょうぶか? と言われ、その人とはその後絶交に至りました。

私からじゃなく、相手が音を上げたのですけれども(おそらく、めんどくさくて気持ち悪かったのだと思います)、私としては「当たり前」「常識」「マナー」あたりを持ち出されると「うっ……」となる傾向があり、いずれ関係からは私の方が引いたかもしれず、最終的にはちょっと我慢大会みたいなことになっていたので、もっと早く線を引いていてもよかった。

この経緯は個別具体的なことでありながら、振り返ると、私の絶交エピソードに共通する話だなあと思う。

私はもっと、最初から、自分の問いかけや疑問の方を大事にすべきなのだ。「当たり前でしょ」と言われてあいまいに笑っている場合ではない。おもしろくもないのに笑って受け流すのはほんとにいけないことです。

と、イ・ランのエッセイ集『悲しくてかっこいい人』を読んで、しみじみしましたよ。

悲しくてかっこいい人

悲しくてかっこいい人

 

横断歩道の向こうで信号待ちで立っている人たちが、信号が変わると反対側にいっせいに早足で歩きだし、互いにぶつかりあって飛んでいく様子は、どうして舞台でしか見られないのだかろう? 座っていた人たちが椅子から転げおちて、机の上に飛び上がってバレエみたいに手足を思い切り揺らす様子は、なぜ舞台でしか見られないのだろう?

 

『悲しくてかっこいい人』「わたちたちは静かに歩いて帰っていく」 p.181 より

 「道で踊りだしたっていい」ではなく、どうして私たちはここで踊らないのかな? という質問であることが大事なんだと思う。

どうして、つい、「死にたい」って言ってしまうのかな?

ついうっかり「死にたい」って夫の前で言ってしまって、「言い間違えた」と言い直したら、彼はここではちょっと書きづらい、おもしろいことを言ってくれました。

彼に「どうして、つい、『死にたい』って言ってしまうのかな?」と聞いたりはしません。それは自分に尋ねます。そして「私はどうしたいの?」と聞き直します。

彼は横からその様子を見て、何か言ったり言わなかったりします。

質問を封殺しない世界は、ここで成立しています。

それから大好きな友人たちとの間でも成立しています。

おそろしいほどくだらない質問をなげかけあうわけですが……。

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