プール雨

幽霊について

怪談始めました

毎年、梅雨の季節になると岩井志麻子の新刊が角川ホラー文庫から出ます。今年は『忌まわ昔(弐) 業苦』が 6 月 25 日に出ていましたので、早速拝読しました。

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『今昔物語』と、たった今目の前で起こっている事件をつないで説話化する。「忌まわ昔」はそういう趣向の短編集で、今年はその二冊目です。

たとえば「池の尾の禅珍内供の鼻の語(こと)」(いわゆる「鼻」)から始まるのは、50 歳を過ぎてふっと会社に行かなくなってしまった父親が、いつしか、右手が腫れている、右手から虫が出てくる、何とかしてくれと言うようになり、妻がその右手をもみ、娘が踏むと、そのときは虫が出ていったと喜ぶのだけど……という話。つい昨日まで、兄だ妹だ母だと、ほかならぬその人だと思っていた相手が、いつの間にか、まったく知らない生き物に変わっていたという話が十話つづきます。

知らず知らずのうちに「なにか」に巻き込まれ、「なにか」の一部になっていたその人を「私とあなた」の世界に留めておく方法は基本的になく、短い話のなかで徹底して転落が描かれていきます。

読みながら「この仕掛けと同じものが先にも出てきたなあ」ということがあり、基本的には同じ話が繰り返されるので、今年のは今ひとつかな……などと思う地点もありました。でも、これは岩井怪談を読むと必ず思うことで、ある地点で私は必ず飽きるのです。そして、飽きたころに「……あれっ」という違和感がどーんとやってきます。

どーんと、というか、じんわり、いつしか、ある日気づくとまったく知らない生き物に変わっていたのが、語り手であった……という方向に物語はスウィッチしていくのでした。これが、そういう仕掛けだと構えていても気持ち悪くなるのです。

岩井怪談で語り手が墜ちていくのはいわば「十八番」なので、「待ってました!」とか言えたらいいのですが、やっぱりこわいし、ぞっとします。特に最後の話は、語り手がそれと気づかず主体性を奪われたあと、さらに語りの主導権すら思いがけない人物に移っていきそう……というところでばっさり。その「ばっさり」具合はかっこいいのですが、ぞっとします。そこにクラシカルなしかけもあって、色々思い出してしまい、二重にこわい目に遭いました。

夏ですし、おすすめです。

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怪談だけでは何なので、ちかごろきれいなもの

おしまい