プール雨

幽霊について

「イップ・マン」を見るということ

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1964 年。イップ・マンは息子の留学先を手配するため、サンフランシスコの中華総会につてを求めた。会長に推薦書を書いてもらえれば、留学が許可される見込みだ。しかし、会長はイップ・マンの弟子、ブルース・リーが「外国人」に詠春拳を教えていることを問題視していた。その問題を解決できれば、イップ・マンを仲間と認め、推薦書を書いてもよいと言う。 

 『イップ・マン 完結』のイップ・マンは、病気と息子の進路問題を抱えていて大分弱っています。鬢に白いものがまじり、なんと、自暴自棄になっているシーンすらあります。これまでイップ・マンを師と仰いできた私の心は「ぁぁぁぁ、師父〜!!」と千々に乱れました。

 そして、千々に乱れた心をかき集めて物語を追いかけるのですが、うまく追いかけられない。「あれっ、なんか、見方がよくわからない……」と苦労した『イップ・マン 完結』でした。

 

この世界には「我々」と「彼ら」しかいない

 今回の「現場」はサンフランシスコのチャイナタウンです。人びとはこの土地で生まれてこの土地で育ったのに、移民として、不当な扱いを受けています。その彼ら彼女らが「外国人」と憎々しげに呼ぶのはもちろんアメリカ人のことで、もっと言うと、アメリカ人のうちの白人です。

 外国といったらアメリカ、外国人といったらアメリカ人という、息の詰まる世界でした。

 なぜチャイナタウンの人びとは「アメリカ人を信用するな」ではなく、「外国人を信用するな」と言うのでしょう。どうして「アメリカ人にひざまずくな」ではなく、「外国人にひざまずくな」なのでしょう。

 二つの水準で、なんかちょっと不思議な言葉遣いだなと思いました。

 一つ目はなぜ「他人にひざまずくな」ではないのかという意味で、二つ目はなぜ「アメリカ」をあるいは「日本」を、そしてまたは「香港」を隠すのかという意味で。

 「外国人にひざまずくな」は中華総会の会長、ワン・ゾンホアが娘に向かって言った言葉です。娘は同級生に嫉妬され、暴力をふるわれます。このとき、その同級生に長い黒髪をばっさり切られた上、怪我を負わされそうになったところで抵抗したため、同級生は自分が持っていた刃物で誤って自身の顔を傷つけてしまいました。それで彼女は移民局に勤める父親に泣きつきました。移民たちを追い出して! と。父親は何と経緯の確認すらせず、違法な捜査でワンを逮捕しました。ワンの娘はこらえきれず、同級生の父親に泣きながら頭を下げ、ひざまずき、許してくれと言います。そのときにワンが言ったのが「外国人にひざまずくな」でした。

 この経緯で父が娘に言う言葉として、思い浮かぶのは「自分が悪くないときに謝るな。まして他人にひざまずくなど、してはならない」といった表現ではないでしょうか。これをなぜ、中華総会の会長で、太極拳の師匠で、人望もあるワンが「外国人にひざまずくな」と言わなければならないのでしょうか。「外国人にひざまずくな」だと、「自国人にはひざまずいてもよいが」ということにもなりえます。また、現場はアメリカのサンフランシスコで、目の前にいるのはアメリカ国籍をもった人です。五億歩譲って、アメリカ人に足蹴にされてきて、今また理不尽な目に遭っている彼なら、「アメリカ人にひざまずくな」と発言することはありそうに思います。その場合はいろんな国があるが、とりわけ中でもアメリカ人には用心しろというメッセージを含むことになり、偏見とはいえ、日々の暮らしと不当な逮捕という状況を思えば、いくら街の指導者といえど、ありそうな話です。でも、ワンさんはこの局面で「外国人」と言いました。

 もちろん、第二次世界大戦中に日本人にもアメリカ人にもひどい目に遭わされた経験がそう言わせているということは考えられます。でも、大戦中のことはちょっと奇妙なほどに言及がなく、映画内で参照できるエピソードがないのです。

 まさに自分が「外国人」であることを根拠(?)に不当な扱いを受けているときに、「外国人」と相手を呼ぶ論理がすっとわからず、「単純だけどこんぐらがっている」という印象だけが積み重なりました。

 ワンは本当なら、娘に、お前は固有名をもった一人の人間として生きていかなければならないのだから、卑屈になってはいけないと言ってやらなければいけないのではないでしょうか。そのときに一旦、「中国人として誇りを持て」と親が言うことも場面に応じてはありそうですが、ワンが示したのはそれですらなく、「奴らに頭を下げるな」ということです。

 この世界には「自分たち」と「外国人」しかおらず、そのために、大人たちは子どもたちの迷いを説得力をもって取り払ってやることができないのです。

 

外国の月と故郷の月

 チャイナタウンの人たちにとって、この映画で起こることは、「自分たち」でもなければ「外国人」でもないイップ・マンが風のようにやってきて、彼らを助けて、誇りのようなものを与えて立ち去る、といったことでした。イップ・マンにとってはどうだったのでしょう。アメリカを立ち去る前にイップ・マンは、香港の息子に電話をして、留学なんかしたくないと悩んでいる彼に「外国で見る月も、故郷で見る月も変わらないな」と言って、二人で香港の街で生きていくことを示します。だから、イップ・マンの側から見ると、夢や可能性に満ちていると思われた異郷にやってきたが、決してそうとは言えないということがわかり、また故郷にもどるという物語です。チャイナタウンでよそ者として扱われながら、息子に何と言ってやればいいか、どんな道を指し示してやればいいか悩み、そして、きっときれいだろうと期待した異郷の月もまた、故郷のそれと同じだったとわかって、かえる。

 この間、イップ・マンが基本的に「うーん」みたいな表情で、いつもの笑顔や確信に満ちた表情を見せないのです。詠春拳最強、みたいなくだりがあるにもかかわらず、表情から迷いが消えない。

 「この脚本、大丈夫か……?」

 と、思っているように見えました……。

 

それでも木人椿なのである

 というわけで、観客として身の置き所がなかった『イップ・マン 完結』です。

 なにか補助線がほしいと切実に思います。

 自分がイップ・マンに飽きちゃったのかなあと心配になって家で前作の『継承』やアンソニー・ウォン版の『イップ・マン 最終章』を見てみたのですが、おもしろかったです。おすすめです。

 イップ・マンのことを考えるということは、とりもなおさず、香港のこれまでを振り返り、今の香港のことを考えることだと思うのです。イップ・マンという一人の人を窓口として、香港の苦闘を振り返る。それがイップ・マンを語り、イップ・マンを見ることだと思います。『完結』では、自分はうまく振り返ることができませんでした。

 『継承』にしても、『イップ・マン 最終章』にしても、彼が木人椿を打っている姿を誰かが、そして私たちが見ているところで終わります。トラブルがイップ・マンを発見し、それが収まり、また木人椿の前に彼が帰ってくる。その物語を繰り返し繰り返し見ながら、私たちはいつでも香港のことを振り返ってきたし、これからもそうするのでしょう。

 

 突然ですが、おわります。