プール雨

幽霊について

三つの百年前

f:id:poolame:20200820142111j:plain

向かって左から順番に読みました

 百年前のことを書いた新書を、きつそうな順に読みました。

 

1. 石原千秋『百年前の私たち 雑書から見る男と女』

honto.jp

ここで言う「大衆」とは「民衆」とは違って、ある程度のレベルの言説を読むリテラシーを備えている人々のことを指す。「百年前の私たち」はまだ人口の数パーセント程度の規模でしかなかったが、この時代の二流の知識人が語りかける対象として選んだ「大衆」こそが、ちょうど現代の多くの日本人と見合った階層だと言うことができる。それが、現在の「大衆」の原像である。 (「はじめに」より)

 約二千冊の雑書から掘り起こされた、「私たち」の「本音」の数々に「ううむ」となったり、「うへえ」となったり。たとえば「第十章 『堕落女学生』は世間が作る」では、「女性に『バカ』のままでいてほしいと思っている世間が『堕落女学生』を作り出している」ことが明らかにされますが、これを読んでいる間中、「桶川ストーカー殺人事件」のことが頭をかすめていました。元交際相手とその仲間に嫌がらせを受けた上に殺害されてしまった被害者を、マスコミは悪し様にののしりました。「女子学生」「女子大生」が被害者というと、被害に遭ってもしょうがない、バカな子だったと語られてしまうテレビと週刊誌の世界を恐ろしいと思いましたし、今でも恐ろしいです。

honto.jp

 明治の女性達には選択肢も主体性も与えられず、常に受け身でいることが求められました。今でも基本的には、そうです。でも、主体性もない、受動的な存在だからと言葉を奪い取っているからこそ、その構造のなかにいる「男性」には「女性」がこわいのでは。話を面倒にしているのは、「男性=主体、女性=対象」という枠組みの方であって、女性達ではありません。

 

2. 松沢裕作『生きづらい明治社会 不安と競争の時代』

honto.jp

 「人が貧困に陥るのは、その人の努力が足りないからだ」という「通俗道徳」が江戸時代の後半に市場経済を通じて広がり、近代化する日本に生きる人々に、決定的な影響をもたらしたといいます。

 勤勉、倹約、孝行といった、哲学的に十分検討され鍛えられたわけではないが、なんとなくだれもが「よいこと」と認めている価値観。それが「通俗道徳」です。これ自体はたいした問題ではないのですが、勤勉であれば成功できる、倹約すれば生活がよくなる、孝行すれば幸せになれる、となるとどうでしょう。この先に、「成功した者は勤勉だったからだ」「よい生活ができるのはその人が倹約家だったからだ」といった転倒が容易に生じます。そして、「貧困はその人の落ち度によるのだ」という自己責任論に繋がります。

 この「通俗道徳」という「わな」にはまって、私たちは格差拡大を放置し、現に困っている人たちを「自らが撒いた種だろう」と言って見ぬふりをする、冷酷かつ生産性の低い社会を作り出すに至っています。

 この社会に適応しすぎると、冷たく、差別的でイヤな人間になってしまいます。テレビをつけると、ぎょっとするような差別表現、冷酷で悪辣な認識が垂れ流されるのが日常になってしまいました。

 私はだれもがこの「わな」と距離を取り、穏やかで、健康で文化的な生活を送れるような社会を望みます。

 

3. 山下泰平『簡易生活のすすめ 明治にストレスフリーな最高の生き方があった!』

honto.jp

 「生活を改善し、自分の能力を発揮できる環境を作り上げ、自分の人生を素晴らしいものにするための手法」、それが「簡易生活」。なぜそうなっているかだれにもわからない謎の習慣をやめ、旧弊を廃し、それによって余裕を生み、個々人の能力を伸ばし、幸せを目指す。シンプルかつ勤勉なライフスタイルです。これが平民主義に至るというのが、おもしろかったです。まず、家庭における全員平等、対等を実現し、ゆくゆくは全人類平等に至り、地球上の誰もがその能力を開花させて幸せに輝くという壮大なプロジェクトなのでありますが、まずは妻の呼び方を「おい、お前」から「○○さん」に変えよう、照れくさいけれども! というところから始まるのが楽しい。

 私がいいなあ! とうなったのは、悪よりは善が簡易、戦争よりは平和が簡易という、その単純かつ肝の太い構えです。

 クレイジーケンバンドも「戦争は反対だ/とにかく反対だ/命がもったいない」と歌っています。戦争や悪は手間がかかりすぎて、命や時間がもったいないのです。

Revolution Pop

Revolution Pop

  • provided courtesy of iTunes

  手間暇かけてあくどいことをしている人にぜひ、読んでいただきたい一冊ですが、そんな、手間暇かけてあくどいことをしている人の内面を考えるのは無駄で、まったく簡易ではないので、私なりに簡易生活を心がけ、幸せを構築したいという所存です。

 

 私、今が百年前のつもりで暮らしてみるわ! と、アン・シャーリーのように元気いっぱい宣言したのは年初だったのですが、その後、母の手術、祖母の入院、そして COVID-19 と未曽有の事態にみまわれ、百年前計画は頓挫していました。

 百年前のつもりで、なんてことを考えたのは、息苦しかったからです。

 たとえば、T カード利用で蓄積された個人情報が令状なしで警察に提供されていたと聞けば T カード利用をやめ、学生時代から通った書店のいちばん目立つところにヘイト本が積み重なっているのを見ては利用をやめ、としているうちに、日常がいろいろと不便なことになってきました。

www.asahi.com

 もはや「インフラ」と呼んでも差し支えないものに権力が入り込むかたちで公共空間がせばまり、自分と「お上」が直接相対しているような錯覚に陥りました。

 政治の話を公共の場でするのはマナー違反と言われたのは昔のことで、これほど公共空間が小さくなり、政治権力がぺったりとひとりひとりのまわりを覆っている今、「すいません、ちょっとそこ、どいて下さい」とちょこちょこ言っておかないと息もつけません。

 「わな」にはまって他人を軽んじることのないよう、「善は簡易」の心でやっていきたいものです。