ある日、夫が上記のディスプレイに文句を言いました。
「なんで、あんな、かわいくないものを飾っているの?」と。
「かわいくない」と言われてたいへんに驚きまして。なぜならばそのディスプレイは精一杯の配慮の結果だったからです。精一杯おしゃれに、精一杯かわいくしたつもりでした。
配慮しなければ、こういうことになります。
でも、彼はアイドル歌手にもショーン・タンにもイモータン・ジョーにも興味がありませんし、こうなってくるとバトルに発展しますので、「あいだ」を取る必要があります。元のディスプレイではまだまだ「私寄り」だったということなのですね。それで今はこのようになっております。
趣味の違う者同士で暮らすと、いちいちひとくろうです。
「趣味」という言葉で自分は「その人が継続的あるいは習慣的に、好きで行っていること。また、そのテイスト」という程度のことをイメージしていますが、ここに、「アマチュアではあるが向上心をもって」といったニュアンスを強く感じている人もいるようです。
知り合いで、休日は好きな食べ歩きのために自転車で東京中をかけまわり、好きなミュージシャンのライブがあると聞けば国内なら基本的にどこでもでかけていき、おそらく海外でも場合によっては行くという人がいます。彼女の SNS への書き込みを見ると大体、食べたもの(主にパフェ、それは美しい)とそのミュージシャンのことで埋まっています。趣味人です。でも、彼女は「自分には趣味がない。趣味がほしい」と言うのです。そのときに出した例は「お茶とかお花とか」でした。だから、そこでイメージされている趣味とは、一人で静かに、向上心をもって行うことなのでしょう。
労働ではないことで、継続的あるいは習慣的に行っている、好きなこと。ここに、人によっては何らかのストイックさをもって臨んでいたり、あるいは達成感を求めていたりすると思います。
それは特段、極端な考え方というわけではなく、趣味活動のもつ一面かもしれません。継続的に楽しむなら、そこにはある程度ストイックさが求められ、場合によっては勤勉さすらついてまわるわけで、人によってはそのストイックな姿勢にこそ惹かれるということは大いにありそうな話です。
姿勢として享楽的であることと、勤勉であること、そして創造的であることはひとつながりの何かで、そこに贅沢や趣味、道楽といったことで示されるものが含まれているのでしょう。
それらは「必要」を超えることではありますが、決して「不要」なことではありません。そのことを、この数カ月で身にしみて理解しました。「必要」だけで「生活」は回せるのですが、「必要」だけで回している「生活」はとても脆弱で、何かひとつずれたら崩れてしまいます。「必要十分」では、「十二分」とはいえないわけですから。
必要なものが必要な分しかない状態は、リスクが極めて大きい状態である。何かのアクシデントで必要な物が損壊してしまえば、すぐに必要のラインを下回ってしまう。だから、必要なものが必要な分しかない状態では、あらゆるアクシデントを排して、必死で現状を維持しなければならない。
「必要」の言葉をもって、余裕や遊びの部分をカットしていくと、切り盛りするだけでいっぱいいっぱいになってしまい、危機に対応できません。それが今般、よく、わかりました。
私たちが生き抜いていくには、「贅沢」や「趣味」、「道楽」と言われるような「遊び」の部分がどうしてもなければならず、むしろその部分にこそ、人間の誠実さや真面目さが潜んでいるのではないでしょうか。愛することさえも、そのなかにあるのでは。
突然ですが、おわります。
8月に見た映画
- 『パブリック 図書館の奇跡』
- 『風の谷のナウシカ』
8月に行った展覧会
- 「画家が見たこども展」三菱一号美術館
- 「チェコ・デザイン 100 年の旅」神奈川県立近代美術館 葉山
8月に見た『刑事コロンボ』
- 「別れのワイン」
- 「野望の果て」
- 「意識の下の映像」
- 「第三の終章」
8月に見た『名探偵ポワロ』
- 「誘拐された総理大臣」
- 「西洋の星の盗難事件」
- 「スタイルズ荘の怪事件」
- 「あなたの庭はどんな庭?」
- 「100万ドル債権盗難事件」
8月に読んだ本
- アンソニー・ホロヴィッツ『シャーロック・ホームズ 絹の家』
- 石原千秋『百年前の私たち』
- 松沢裕作『生きづらい明治社会』
- 山下泰平『簡易生活のすすめ』
- アガサ・クリスティー『死との約束』
- 笹公人『念力レストラン』
- 深町秋生『猫に知られるなかれ』
- 真魚八重子『バッドエンドの誘惑』
8月、くるったように聴いた曲