プール雨

幽霊について

三人のアン・シャーリー

 NHK で、ドラマ『アンという名の少女』(原題:Anne with an "E")が始まりました。

 

 薄暗い村の、薄暗い家。色調がハマスホイの絵のようです。

 それがとにかくきれい! 音楽も好みです。

 タイトルが "Anne of Green Gables" ではなく、"Anne with an 'E' " であることからもわかるように、いつの時代のどこそこのと、固有名の重なるアン・シャーリーではなく、もうすこし抽象的な「ある一人の人」としてのアン・シャーリーです。そして、 "E" が表す尊厳にかかわる話。尊厳を奪われた人が立ち上がろうとする、現代の私たちを映す物語です。まるで、自分を見ているようだと思いました。

 この「今の話だなあ」という印象が回を重ねるにつれ、ドラマに固有のものをたたえて薄れていくのか、最後までこのままなのか、どうなんだろうと思っています。

 少し前から、TOKYO MX という地方局で高畑勲監督によるアニメ『赤毛のアン』(英題:Anne of Green Gables)が放送されていて、毎週楽しみに見ています。

 アニメを見て、原作(松本侑子訳)の該当箇所を読んで、ということを繰り返して、もう最終回目前まで来ました。

 そこにこのドラマも始まったので、頭の中がアン・シャーリーで一杯です。

 高畑版はモンゴメリの原作に流れる時間に忠実で、アンがグリーン・ゲイブルズにやってきた最初の三週間がとてもじっくりと(原作は全 38 章中 10 章が、高畑版は全 50 章中 7 章がそこに当てられます)進むのです。5 年間のお話の最初の三週間で、まずマシューがアンの話に耳を傾け、次にマリラがその話を聞き、そしてついにレイチェルが庭に咲く「六月の白百合」をアンに摘んでいいよと言ってやるところまで来ます。この三人が、三週間かけてアンを受け入れているのです。

 『アンという名の少女』は第 1 話にこれがすっぽり収まっていて、テンポが早い。「運命は自分で決める」一話で、原作で言うと 14 章まで来てしまいます。原作で、レイチェルが驚いて、マシューが驚いて、マリラが驚いて、アンが驚いて泣いて、で何章もかかっているところがびゅんっと進むので「現実っぽい」という感じがしました。現実は釈明を待ってくれないというか。孤児になったアンが落ち着き先を得られず、子守として働かされた後、結局また捨てられて孤児院に行ったのは原作通りです。原作で、アンはマリラに「トーマスさんとハモンドさんは、よくしてくれたかい」と尋ねられてこう答えています。

あの、二人とも、そのつもりはあったのよ。できるだけ優しくしようと思ってくれたに違いないの。でも、他の人が親切にしようと思ってくれたなら、必ずしもそうならなくても、あまり気にしないわ。だっておばさんたちには苦労が多かったもの。お酒吞み夫がいたり、双子が続けて三組もいたら、大変でしょう? でもおばさんたちは、私に優しくする気はあったのよ、私には分かるの (L. M. モンゴメリ著、松本侑子訳『赤毛のアン』より)

 これを聞いてマリラは、もう何も聞けなくなってしまいます。そして不意に、アンへの愛しさがこみ上げていることに気づいて、戸惑います。マリラは「アンが言葉にしなかった実際の暮らしぶり」を思って、言葉が出てこなくなってしまうのです。

 大人になってからこのアン・シャーリーの言葉を読むと、ああ、身近な人に暴力をふるわれている人の反応だなあとわかります。

 それがマリラにもわかってしまったんですね。身近な大人に暴言や暴力をふるわれるときに、だれもがたどる心の動きを、マリラも知っている。だから、マシューの「わしらが、あの子の役に立つかもしれないよ」という言葉が響き、彼女は、自分の番だ、自分がアンを引き受けるんだと決心するに至るのです。

 ちなみに、原作ではマリラの独白で語られる、自分の番だという言葉、アニメではマシューの台詞になっています。マシューがマリラに「そうさな、お前の番だな」と言うのです。

 原作は基本的にアンとマリラの対話劇という面があるのですが、アニメではマシューやレイチェル、牧師さん夫妻、ステイシー先生など、他の人たちの存在感が大きく増しています。

 私はこの、アンが安心してみんなと暮らしているアニメを見て育ちました。小学生だったときに最初の放送があって、そのあと村岡花子版の原作を読んで、ことあるごとに思い出しながら小学生時代をやりくりしていました。

 アンとダイアナを混ぜたようなイマジナリー・フレンドがいて、いつもその子といっしょでした。その子とのことを作文に書いて、先生は褒めて下さったけど、家族には「嘘を書いた」と叱られました。

 従妹たちが近くに住んでいて、よくしてくれる叔母もいたので、孤児院のアンのようには孤独でなかったのですが、私にはアン・シャーリーとダイアナ・バーリーが必要でした。彼女たちがいなかったら寂しかったと思うし、本を読む習慣が身についたかどうかも、わかりません。

 そのアンとダイアナは自分とは全然似ていない、おもしろくて生き生きした友だちです。

 振り返ってみると、小学生だったあの時期、物語の登場人物を他者として受けとめて、併走していくレッスンを重ねていたのだなと思います。

 だからドラマの、まるで自分を見るような、自分たちを見るような、ちょっと抽象的なアン・シャーリーにはとまどいを覚えます。これがこの後、どう変わっていくのかな? と思っています。