『ゴスフォード・パーク』の脚本(向かって左側に原語、右側に日本語訳という形式)を章ごとに読みながら、映画の該当箇所を(英語&英語字幕で)見て、というのを繰り返して、最後に一気に見るという営みがやっと終わりを告げました。自分のメモを見て、「読み終えて見終えたのは9月8日のことであったか。へえ。すっごい前みたいに感じる!」という経験をしています。
英語の勉強をしようと思って、どうせするなら好きな映画でしようと考えたのが間違いの始まりで、なぜよりによって『ゴスフォード・パーク』にしてしまったのか、今となっては不可解です。第一次大戦と二次大戦の戦間期、ヴィクトリア風の習慣がかろうじて残りはするけれども、おそらく二十年後三十年後、「執事」などという職業はないだろうという予感の中、頽廃の気配までするカントリーハウスで起こる殺人事件。とにかく、台詞のひとつひとつがめんどくさかったです。皮肉、嘘一歩手前の婉曲、嘘丸出しなのに真実、よくわからない習慣と、障壁につぐ障壁で、「単語の意味はわかったがそれでもわからん」ということの連続でした。
まあでも「今のところ、わかるけど、わからないなあ」と思いながらでも、「……おもしろい!」と感じるのは楽しい体験で、群像ものは繰り返し見ると楽しさが増すなあと思いました。
みんなから嫌われ、憎まれている大金もちの男がつねに犬と一緒なんですが、その犬まで嫌われていて、みんな、"that vile animal" とか "that filthy dog" と呼んで邪険に扱う。優しくしてくれるのはメイドのエルシーだけ。この犬が、みんなの間を動き回って、最後にどうなるかというのもストーリーをきっちり形成していておもしろいです。
上流階級のみなさんが過ごす階上の世界では、使用人達はまるでそこにいないかのように気配を消してすごし、しかし呼ばれたら速やかに応じなければいけません。片や、手を動かせばその先に灰皿がやってくるのが当たり前という人々、片やまるで存在しないかのように自身の気配を殺し、しかし気は配らなければいけないという人々。事件は、この二つの潮流が交錯した日、場所で起こりました。
知り合いが「(この映画を見ると)どうしても寝てしまう」というのですが、今回ゆっくりと見て、その理由もちょっと想像できました。台詞の応酬なのに、まるでその台詞のすべてを聞き取らなくても良い、とでもいうかのような演出が続き、言葉がふわ〜っと入ってきてふわ〜っと出て行くので、台詞を追っているととても疲れるのです。
しかもとことん婉曲的だし。婉曲的でないのは罵倒語くらいで。
ともかく。
次は現代のアメリカものにします。非ミステリで。一度、『アバウト・タイム』の台詞集を買いそうになったのですが、イギリスの映画なんで、これまた皮肉や、よくわからない冗談の応酬だし、おまけにいちおう SF だから、よしました。
『リトル・ミス・サンシャイン』が適切なのではないかなと考えています。子どもが出てくるし。少なくとも子どもに向かって話しているシーンは聞き取れるのではないか。そういう期待があります。
この営みに花が咲くことはあるのでしょうか?
頭のすみで「何も期待してはいけない」という言葉が点滅しています。
まあ、花は咲かないかもしれないけど、それもまたいいでしょう。特に成果につながらないことを延々とやりつづけるというのも、豊かなのではないかなと自分では思います。
そういえばずっと見続けているコロンボとポワロ、どちらも新シリーズに突入して、ぐっとおもしろくなりました。ずっと見続けることによって、こっちが慣れたせいという可能性もゼロではないにしろ、充実しているなあと感じることが多いです。
そんなわけで奇妙にひきのばされた 9 月でした。
9月に見た映画
- 『ゴスフォード・パーク』(DVD)
- 『リアム・ギャラガー アズ・イット・ワズ』(映画館)
- 『TENET』(映画館)
9月に行った展覧会
- 「大東京の華 都市を彩るモダン文化」江戸東京博物館
9月に見た『刑事コロンボ』
- 「愛情の計算」
- 「白鳥の歌」
- 「権力の墓穴」
- 「自縛の紐」
9月に見た『名探偵ポワロ』
9月に読んだ本
- 『スクリーンプレイシリーズ ゴスフォード・パーク』
- 三島由紀夫『戦後日記』
- 若竹七海『製造迷夢』
- 深町秋生『探偵は女手ひとつ』
- 深町秋生『バッドカンパニー』
- 深町秋生『卑怯者の流儀』
- 松本清張『黒い空』
9月、くるったように聴いた曲