夕べ、録画しておいたアニメ『赤毛のアン』第 48 章「マシュウ我が家を去る」を拝見しました。
松本侑子訳『赤毛のアン』(集英社文庫版)でいうと第 37 章「死という命の刈りとり」p.430-435 のわずか 6 頁弱に相当する場面です。
マシュウの葬儀はゆっくり映され、これを小さい子が見たらほんとにお葬式に出ているような気分になるだろうなと思いました。
アンは、大事な人が亡くなってしまった後には誰もが経験する、楽しむことに対する罪悪感を味わっています。マシュウがいなくなったのに、それまでと変わらず自然の美しさやダイアナとの語らいに歓びを見出すなんて、しかも笑うなんて、と苦しんでいます。この話を聞いたアラン夫人は「哀しみに忠実でない」ような気がするのはわかるけれど、自然の癒しから心を閉ざさないでと言います。
「(中略)歓びを分かち合ってきた愛する人が亡くなると、楽しい気分にしてくれるものを遠ざけたくなるのよ。だから人生の生き甲斐がまた戻ってくると、悲しみに不誠実なような気がしてしまうんですよ」(モンゴメリ著 松本侑子訳『赤毛のアン』p.431 集英社文庫)
アニメでは「忠実でない」、松本版では「不誠実」となっていますが、この高畑版『赤毛のアン』、こんなに原作通りだったんだなとアラン夫人のこの言葉を読むとまた感じ入ってしまいます。
この章で印象的なのは、マシュウが好きだと言った小さなスコッチローズです。マシュウたちのお母さんがスコットランドから運んできて大事に育てていたスコッチローズ。これをアンはマシュウのお墓の前に挿し木しました。ダイアナが水をかけながら、うまく根付きますようにと言い、その苗が大きく育って年に一度、マシュウの前で白い小さな花が咲くことを二人で願いました。
スコッチローズは花の芯が黄色で、それを白い花びらが優しくかこむ可憐な花です。私はそういう花が好きです。秋明菊など、お散歩に行った先でふらりと見られないものかと思いますが、なかなか出くわしません。
しょうがないので、白バラを花屋で奮発してきました。
アニメの話にもどると、夕方、玄関でアンを待っているマリラがとても淋しそうでした。そのマリラに、自分も淋しいのにことさら明るい声で「マリラ、ただいま!」と笑顔を見せるアンの優しさ。この場面は、原作も美しいです。
マリラは、玄関の上がり口に腰かけていた。隣にアンもすわった。二人の後ろでは、ドアが開け放してあり、大きなピンクの巻き貝で扉を押さえてあった。うずを巻いた巻き貝の内側は、すべすべしていて、海に沈む夕陽を思わせる色合いをしていた。(同 p.432)
この夜アンは、マリラとギルバートの父親との間にあったロマンスとすれ違いを聞くのでした。アンとギルに起こったようなことが、マリラとジョンの間にもあったのですね。アンの淹れた紅茶を間に、二人の語り合いはしばらく続いたようでした。
追記:
スコッチローズ、なかなか見かけないと上では書きましたが、自分の撮った写真のなかにそれらしきものがありました。
これは近所で「それまで歩いたことのない道」を探していて偶然行き会った花です。だからどこへ行けば見られるか判然としません。でもまた来年、春になったら探してみようと思います。