今年は冬至の辺りからクリスマスにかけて、こんな本を読んでいました。
『仁義なき聖書美術』から続けて読むポアロ、楽しかったです。『ポアロのクリスマス』には聖書における有名な逸話、「放蕩息子のたとえ話」が出てきますし、ある人物が旧約聖書的だと描写されます。聖書からの引用を見る度に、『仁義なき聖書美術』が思い出され、読書体験が楽しくも、鮮やかになりました。
ところで、この『ポアロのクリスマス』「解説」にこう書いてありました。
そもそも日本は宗教に関してはかなり大らかというか、いい加減というか、一本の筋が通っていないのは周知の通り。神様も仏様もイエス様もケース・バイ・ケースに応じて都合いい時だけありがたがる国民性なのである(もちろん数少ない信心深い方たちはおられるが)。(アガサ・クリスティー『ポアロのクリスマス』村上啓夫訳 霞流一「解説」p.470)
子どもの頃から幾度となく聞かされてきた話ですが、何度聞いてもすっきりぱっきりと納得できません。
「日本」は「宗教に関してはかなり大らか」でしょうか。
私の印象は違います。多くの人が「宗教という言葉」は忌避しながら、それと意識せず宗教儀礼を行っており、神道以外の宗教に対しては不寛容な社会だと感じています。死に関しては仏教を通じて儀礼を行う人が多いので、そうしたことを「一本の筋が通っていない」と評するのは間違いだとはいえませんが、神道と仏教の両方を信仰する生活は昨日今日始まったことではないので、それをして「大らか」で「いい加減」とはいえないと思います。
正月には初詣をし、家を建てる際には地鎮祭を行い、厄年だといっては厄払いをし、鳥居をくぐる際には帽子を取り、といったふるまいが「当たり前」のこととして期待され、そうしなければ罰当たりだといわれる社会のどこが「宗教に関してはかなり大らか」なのでしょうか。また、たとえば鳥居の前を通ると自然と襟を正した気持ちになるといったことを通じて「いかにもそれこそが日本人だ」といった評価がなされるところも、日々目にします。つまり、神道の秩序が「日本」という国とわかちがたく結びついているのです。神道という特定の宗教がこの社会生活そして政治と強固なつながりをもっていて、息苦しいほどです。
その宗教性、自分たちの宗教儀礼がそれと意識されていない状態を指して「いい加減」と表現するならわかります。特定の宗教儀礼が宗教的ふるまいとして意識され対象化され考えられることなく、続けられるのは「大らか」というよりは「不健全」だといった方がふさわしいからです。
私は、神道には親しみを感じないので、日常的に神道の儀礼ひとつひとつに違和感を感じています。宗教空間のなか(境内など)ではまわりに合わせて静かにしていますが、この、儀礼だけが高度に発達して教えのようなものがなく、時に排他的な思想を見せる神道の儀礼に参加することには違和感があります。
とはいえ、私が信仰のない人間かというと、そうでもないと思います。私は縁起の悪い言葉は極力口にしないよう気をつけていますし、本をまたいだり踏んだりしません。新聞も踏みません。公文書が破棄されたとか改竄されたとか耳にすると、違法だという以上に、ぞっとします。また、常に死者の声に耳を傾けたいと願っています。自分が生きていくには、経済活動だけでなく、そうした、自分をはるかに超えるものを畏れたり、憧れたりする気持ちがどうしても必要だと感じています。
『異郷の隣人』には「宗教の場」が以下のように解説されています。
また、宗教は独特の場を生み出します。そこは世俗とは別の理屈で成り立っています。そこでは宗教儀礼が営まれ、宗教儀礼によって「コミュニタス状態」が発生します。この「コミュニタス状態」というのは、ヴィクター・ターナーの論をかなり勝手に私釈したものなのですが、ようするに「世俗の価値からいったん離脱して、人々が独特の対称性を取り戻した状態」のことなのです、そこでは社会の順列や地位などが横に置かれ、普段まとっている価値観がカッコに入れられ、神や仏の前で平等になるのです。巡礼や祭、あるいは無礼講などもコミュニタス状態ですよね。宗教儀礼のみならず、音楽や芸能の場も似たような状態を生み出します。 (釈徹宗+毎日新聞「異郷の隣人」取材班『異郷の隣人』p.15)
神道は政治権力との結びつきが(歴史的にも)強いというか、ほぼ重なり合うかたちで進展してきたものなので、上記の視点からも不満があります。
もし神道が今後、政治権力と距離を取ることに成功し(=「世俗の価値からいったん離脱して」)、人々がその空間で安心して自身の信仰と向き合えるようになり(=「人々が独特の対称性を取り戻した状態」を実現し)、他の宗教のように分かち合いの歓びを示していけたら、この社会はどれほど恩恵を受けることになるでしょう。
そうした営みについては仏教界の方が意識的なのかなと感じています。
様々な信仰を持つ様々な人たちが隣り合い、みんなで生き抜いていける社会の実現に向けた動きを、来年も注視していきたいです。