プール雨

幽霊について

きしかたとこしかた

 「来し方」は常に「きしかた」と読む人、常に「こしかた」と読む人、用例で読み分ける人と色々で、かつ、どれでもよいので、むしろ仕事のときは「ルビを振りますか?」と著者に質問することが多いです。どっちで読んでもかまわないのならルビなしで、著者にこだわりがあるのならルビを、という感じです。

 私自身は口で言う場合には「きしかた」と発音することが多いと思います。『明鏡国語辞典 第三版』より引用します。

きしーかた【来し方】[連語]過ぎ去った時。また、通り過ぎてきた所。こしかた。‖「——行く末(=過去と未来)」▶「き」は動詞「く」の連用形、「し」は過去の助動詞「き」の連体形。

こーしーかた【来し方】[名]過ぎ去った時。また、通り過ぎてきた所。きしかた。

 「きしかた」は連語扱いで「こしかた」はひとつの名詞なんですね。

 古語の助動詞「き(ここでは連体形に活用していて『し』のかたち)」は連用形接続なのですが、カ変・サ変動詞には特殊な接続のしかたをします。カ変動詞「く」の場合未然形「こ」にも連用形「き」にも接続するため、「こしかた」「きしかた」の形が併用されることになりました。

 平安期の文法・用例基準でかんがえると、「過去」の意味では「きしかた」を、「通り過ぎてきた方角」という意味の場合は「こしかた」を用いるとすっきりします。

「過去」の意味での「きしかた」

  • きしかたを思ひ出づるもはかなきを行く末かけて何頼むらむ(『源氏物語』「総角」)
  • きしかた行く末のこと残らず思ひ続けて(『源氏物語』「薄雲」)
  • 忘れ草摘みて帰らむ住吉のきしかたの世は思ひ出もなし(『後拾遺集』一〇六七)

「方角」 の意味での「こしかた」

  • うち返り見給へるにこしかたの山は霞み、はるかにて(『源氏物語』「須磨」)
  • ある時にはこしかた行く末も知らず、海にまぎれむとしき(『竹取物語』)

 かようにすっきりさっぱり行ってくれれば爽快なのですが、そうは行ってくれないのが言葉で、この使い分けは平安末期にはくずれ、鎌倉時代には「こしかた」のみが残り(掛詞にもちいる以外は)、「きしかた」は消滅したといいます。

 と、あらためて考えてみると(三〇年ぶりくらいに考えました)、「きしかた」はどっかのタイミングで口語に復活したってこと?

 へえ。

 なんでだろう。過去の助動詞「き(し、しか)」のカ変動詞未然形接続が説明つかなくて気持ちわるかったんですかね。

 ふうん。

 この話は以上です。

 最近読んだミステリに次のようなくだりがあったのです。

 今の居場所を探すのに比べれば、来し方を調べるのはさほど難しいことではなかった。まず美帆が勤めていた喫茶店に、採用面接の際に提出した履歴書が保管されていた。そこに最終学歴として書かれていた北海道の高校に当たったところ、臼井美帆なる女性の名は、十六年前の卒業生として確かにそこにあった。(丸山正樹『刑事何森 孤高の相貌』「ロスト」 p.196 より)

 私の好きなシリーズに手話通訳士荒井尚人を主人公とするもの(『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』『龍の耳を君に デフ・ヴォイス新章』『慟哭は聞こえない デフ・ヴォイス』)がありまして、『刑事何森 孤高の相貌』はそれのスピンオフです。

 コーダってご存じですか? 私はこのシリーズで初めて知りました。聴覚障害のある家族のなかで育つ、聞こえる子のことを聴者、コーダと呼ぶのだそうです。荒井尚人は聴覚障害のある両親のもとで育ち、声にならない声に耳を傾け、言葉にならない言葉を読み取ろうとしながら生きています。この彼と捜査過程でかかわることになるのが気難しい刑事、何森稔です。この人が、付き合いづらい、無愛想な、しかし誠実ないい人で、読めば読むほど好きになってしまいます。彼の活躍は『慟哭は聞こえない デフ・ヴォイス』でも読むことができ、『刑事何森 孤高の相貌』を読んでふとんでむせび泣いた後、ついうっかり読み返して風呂で泣きました。

 それで『刑事何森 孤高の相貌』は「来し方」に「きしかた」のルビがあったので、「こだわりなんだな」と思いました。該当箇所は「こしかた」と読んでも「きしかた」と読んでもかまわない箇所ですが、現代語の感覚からいうと、より素朴に、体感的に「生きてきた時間、来た方角」ととらえることができる「きしかた」のルビがあるところに、どういうわけか感動してしまったのでした。

 おすすめです!

honto.jp

honto.jp

honto.jp

honto.jp