プール雨

幽霊について

絶交を繰り返しています

 若いときはこう見えて「絶交」などしたものなんです。

 絶交をすると決めて通達したのちは、連絡先のメモを破棄してこちらからは連絡できないように自分を追い込み、忘れます。

 すると、何年か経って、間に立ってくれる人が現れて、「いいから、三人で会おう」とセッティングしてくれ、そのころには絶交の経緯を忘れているので、のこのこと出かけていって、話しているうちに「あっ、そうだ、この人、わりとハードめにスピリチュアルなのも、愛国的なのも別にいいんだけど、排他的なんだよなあ。あの日、昼日中の往来で人種差別発言されたもんで『おいやめろ』って言ったら『雨ちゃんは世界のことをもっと勉強しないとね』って言われて勉強ってなんだ勉強って、他人の偏見と妄想と悪口聞いたってしょうがないでしょ、というやりとりの末、我々は解散したのだったなあ」と思い出し、まあ、その後二度と会わない。

 そういうことがありました。

 類似のことが例えば SNS、映画や音楽、本などでもあるのです。

 雑誌『映画秘宝』とは過去に何度か絶交をしました。何で絶交したかは思い出せません。まあ多分、人権や差別に関することだったのでしょう。そんな重大なこと、ふつうは忘れないと思うんですけど、私はよほど気をつけていないと忘れてしまうのです。それで、何か驚くような特集があるとついうっかりまた買って、熟読してしまう。雑誌なので、執筆陣が一枚岩というわけでなく、その時々でなんとなく充実している月もあれば、全然ダメな月もあります。

 一旦休刊した後はわりと平均して「なんか読みやすくなった」という感じがしました。以前は半分くらい、自分にとっては意味不明で、ややもすれば「バカのふり」をして攻撃的にふるまう(少年の心をもった俺たちがひどいことを言うのを見逃してくれるのがもののわかった人間のふるまいだぞ、というメッセージを発する)ような頁もあり、それが繰り返されると「絶交モード」になっていたのですが、復刊してからはああした、政治からは切り離された(かに見える)文化の領域で政治的な闘争を行う「男同士の付き合い」を演じるといったふるまいはやめたのだな、雑誌のもつ公共性について考えていくんだな、と思えるような紙面作りが続いていて、先が楽しみでした。

 でも、先週起こった『映画秘宝』広報による恫喝事件で、そうした努力も期待もふっとんじゃったかもしれません。

 声明には「信頼回復を目指します」とありますが、被害者の方からすればもとから信頼がなかったところに、一方的に脅しの DM が送りつけられ、出版社へ問い合わせるも一週間ほど放置され、驚くことに、加害者から直接電話(=加害者が被害者の個人情報を得てしまった)がきて謝罪という事態にさらされ、その後でやっと公式に声明が出たわけなので、ちょっと難しいでしょう。

 また、長年の読者だった私にとって、非常にショックなことでした。加害者と直接知り合っている方からすれば、加害者がそこまで追い込まれた動機が気になる、ということもないではないのかもしれませんが、いち読者としては、あれほど気味の悪い行動を編集長がしたという事実に戦きます。

 これは『映画秘宝』に限らないのですが、薄ら笑いを常に浮かべているような文章というものがあって、これが読む人のかまえによっては「攻撃的」と映ったり、「共同性を感じられる」ような気がしたりするのだと思います。私はそんなに笑わない方なので、読者がつられて笑うことを想定して書かれた内輪ギャグなどは嫌いですし、秘宝の記事あるいは町山智浩の文章を読んで「なんでこの内容で笑えるの? なにがおもしろいの?」と不可解に思うことがあります。

 『映画秘宝』がマッチョなのは間違いありません。マッチョで下品なのは間違いない。それが市場で毛嫌いされ、何をしても何を書いても悪口を言われる状況にあり、ときにかっとするのは想像できます。でも、それは(現状では)しょうがないし、なかには読んだ上でなされる批判もあるわけで、「消えてくれ」というメッセージを真に受ける必要はありませんが、感想や批判は読んで考えてほしかった。

 やはり腰をすえて暴力自体について考え抜くような特集を長く組んでいく以外、もうしょうがない時期に来ているのではないかな、と読者としては思います。

 MeToo は2000 年代初頭から続く運動ですが、注目されたのは映画界からの告発があってからですよね。この運動に対して、映画秘宝では単発の記事があって、その記事自体は読み応えがあったのですが、もっと大きな特集が展開されてもよかった。また、映画監督や映画館代表による暴力に対する告発も続いています。そうした問題に対して、映画作品と現実を結びつけるな、ではもう済まないと思います。

 今「もう済まない」と書きましたが、ずっと済ませてはいけなかったのだと思います。見ないようにすること、ないことにすることもまた暴力のひとつのかたちです。この暴力という問題について「人類にはつきもの」で済ませるのではなく、考え抜いていきたい。

 物語は現実の下僕でも映し鏡でもなく、現実から生まれ、現実に干渉し、現実を変えていくものです。『マッドマックス 怒りのデスロード』のイメージを単に楽しみ、消費するのではなく、あのマックスの、フェリオサの、スプレンディドの、ケイパブルの、ニュークスの……視線の中で生きていく。マ・ドンソクのイメージに依存するのではなく、体のなかにマ・ドンソクを住まわせ、自らも愛しながら生きていく。

 そんな特集を粘り強く展開していってほしい。『アベンジャーズ』の粘り強さ、諦めの悪さを見ておいて、あの DM は、ありえない! 暴力の構造と自由についての言論が行き交う場所として『映画秘宝』が育っていくことを期待します。