プール雨

幽霊について

速度

 なんでも遅い方です。

 目が覚めて実際にふとんから這い出すまで、平日で 5 分、休日なら小一時間かかるし、家事にかけている時間を全部かき集めると多分 6 時間くらいになります。

 「急ぎの仕事」は大抵断ります。無理だから。

 映画は映画館で見たい。家で見ると「こわいよう」とか「いやだよう」というタイミングでいちいち止めてしまい、二時間の映画を見終えるのに二日かかったりするから。

 昨日は二十年近く住んでいる自分の街で道に迷い、行って帰るだけなら 30 分の距離に二時間かかりました。

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近所でいちばん「時間」を表現していると思う物体

 そんな私でも「すごく早く読める本」というものがたまにあります。本自体が速くて、ぽんぽんぽーんと文章がすすみ、大抵笑っているうちに読み終えて「あー、おもしろかった!」ということになる本です。

 最近読んで速かったのは柳広司『贋作『坊っちゃん』殺人事件』です。

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 坊っちゃんとあだ名されてしまう「おれ」が四国の中学校を辞めて東京にもどってきて、街鉄の技師になってなんとかかんとかやっていたらばったり山嵐と再会し、そこで赤シャツが死んだぜと知らされあれよあれよという間にあの「不浄な地」(夏目漱石坊っちゃん』)に舞い戻り、そこで探偵めいたことをすることになるのです。赤シャツは自殺ということになっているのですが、ほんとうは? というお話。

おれはそれまで、東京以外は遠足で鎌倉行ったばかりだったから、田舎があんなところとは知らなかった。なにしろ万事が東京のさかに行く。偉い奴が奸物で、弱いほど威張っている。美しい人が不人情で、バッタは床の中にひとりでに御這入りになる。気狂いが人の頭を撲るのは、なぐられた人が悪いから撲るんだそうだ。なんとも物騒な所だ。 (柳広司『贋作『坊っちゃん』殺人事件』より)

 これが「おれ」による『坊っちゃん』顛末の要約。田舎とか東京とか、そういう問題ではなく、坊っちゃんにとって初めての「人の世」だったわけで、そこで彼はぽーんとはじき飛ばされた、ということのようです。人の世で住みにくさが高じて、東京にもどってきて、泣きながら迎えてくれた下女の清と暮らし、その清も今は亡くなってしまった。

 かように『坊っちゃん』は寂しい小説です。

 この人はそもそも家に帰属意識がありません。帰る場所として思い浮かべるのは東京というより清のところです。おやじも母も自分を全然かわいがってくれなくて、兄ばかりかわいがった。だが、清だけはかわいがってくれた。おれなんかかわいがることないのに、と坊っちゃんが気の毒がるほどかわいがってくれた。それで清のところに帰って行くのです。

 『坊っちゃん』が寂しいのは、起きる事件に対して、彼が基本的に部外者だからです。当事者扱いしてもらえないからこそ、あだ名が「坊っちゃん」になってしまうわけで、人の世に足場がなく、はっきりと「住みにくい」という言葉すら出てこないほど部外者然としている青年が、ひとりだけ部外者扱いしなかった清のところに帰って行く。そしてその人が亡くなってしまう。

 この寂しさを『贋作……』も引き継いでいるなあと思いました。

 そこがおもしろかったです。

 坊っちゃんは上から見たり下から見たり先を見たり振り返ったりせず、常に渦中で渦中の言葉を発します。

見れば、塀には何やらのたくった草書の聯が、読めるなら読んでみろと澄ましかえっている。なるほど読めない。読めないところをみると、よほど名家のものに違いない。(柳広司『贋作『坊っちゃん』殺人事件』より)

 これは適当なところを引用してみたのですが、この速度、直截さは寂しいながらも心地よく、この事件終盤で坊っちゃんが人々から欲望される展開になるのも、わからないではありません。

 人の世でいつの間にか思いもよらなかったところにたどり着いていて、なんだか自分の命が、命や土みたいな匂いのするところから遠く離れたものになっているような気がするとき、坊っちゃんのような話し方、考え方をする人にそばにいてほしいと思うのは、まあ、人情。人情、っていう感じなのかなあとぼんやりと本を閉じました。

 街鉄の坊っちゃんの上司、長井って人がすっごくいい人でねえ。正直でさっぱりしていて面倒見がよくて。坊っちゃんを叱りつけたり喧嘩したりしながらいっしょに働く人で。ああいう人が主人公の小説か映画があったらなあ。

 それはいいとして、この『贋作……』に輪をかけて速かったのがカレー澤薫『ひきこもりグルメ紀行』です。

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 編集担当さんより毎月送られてくる各地の銘菓、名物を食べて考えるというだけのシンプルな一冊ですが、これの巻き込み方が強烈で、読み終えてひと月の間に、掲載されている名物のうち数点を取り寄せ、食べつくしました。おいしかった。

「羊羹」と言えば超メジャーな和菓子だが、和菓子に対する感覚が雑な人間は、羊羹とういろう、果てはあんことの区別がついていなかったりする。

 あらためて「羊羹」とは何かというと、元は中国の料理で、字の通り、「羊の羹」、つまり羊肉のスープだったそうだ。

 あまりに遠いスタートである。(カレー澤薫『ひきこもりグルメ紀行』p.246 より)

 今、自分たちが見たり食べたりしている例の羊羹にたどり着くにはこの後 6 段落かかる。6 段落かけて羊羹にたどりついたときにはあら不思議、羊羹に対して何の執着もない私が「羊羹食べたい」という気持ちになっているのです。

他にまだ気づいていないすごい秘密があるのでは。そう思い、さらに食べ進めていった。そして私はついにある事実に気づいた。

「なくなった」

 これは衝撃的事実である。(カレー澤薫『ひきこもりグルメ紀行』p.101 より)

 これは「キクスイドーのポテトチップ」を食べているところ。とてもシンプルで、軽い、なんだろうこのおいしさ、なんだろうと食べているうちに一人で一袋食べ尽くしてしまったという、実に印象的なシーンです。

 これ読んで、買ったよ。

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買った

 買った、食べた、なくなった。

 あと、今度見かけたら買おうと心に決めているのが「かいこの王国」です。チョコレートで蚕の一生を表現しているお菓子。以前、群馬に遊びに行ったときに見かけて「リアルすぎる」と買うことを拒否したのですが、これは買って食べることに意義がある。今、私はそういう心境になっています。結構おいしいそうです。

 思わず声に出して読みたくなる、テンポのすてきなこの本に、もうひとつ魅力を添えているのが、時折顔を出す彼女の郷土愛です。

そんな、平素地元を意識してない人間でも、等しく郷土愛を発揮してしまう瞬間がある。

 それは「わかってない奴」が現れた時である。

 私は「明石焼き」の文字を見た瞬間、「あのたこ焼きっぽいやつだな」と思った。

 これはおそらく地元の人にとってはイラッとくる発言ではないだろうか。(中略)

 私も山口県出身だが、「山口の人って全員総理大臣なんでしょ」と言われたら、イラッとくるかは置いておいて、結構なでかい声で「違う」と言ってしまうだろう。(カレー澤薫『ひきこもりグルメ紀行』p.32 より)

 ちなみに私は東北のある地域産の者で、石もて追われたわけではないが、まったく帰属意識はなく、郷土愛もない。だが隣県のやつに戊辰戦争のことを持ち出されるとかっとして、かなりストレートに「うるせえ、ばか」と言ってしまうだろう。あと、東北出身のくせに明治政府大好き〜💞 みたいな輩は決して信用しない。口もきかない。

 と、かように、平素、出身地のことをすっかり意識の外に置いている私のような人間の、なけなしの郷土愛をほりおこす名著カレー澤薫『ひきこもりグルメ紀行』、おすすめです!