プール雨

幽霊について

ダークサイドに墜ちそう

 今日の『東京新聞』「本音のコラム」担当は齋藤美奈子で、タイトルが「グレそう」でした。

 三度目の緊急事態宣言が発出されたが、「ご自分たちはワクチンの確保もできず、検査態勢を整えることもできず」、「会食もし放題」でいながら、市民には「要求」ばかりし、オリンピックは「もうやめようよ」という声が「七割を占めても聞く耳持たず」、「さまざまな業種をスケープゴート」にし、「旅行を推奨したかと思えば、てのひらを返したように県をまたぐなと迫られ」、「その上、気の緩みだ、コロナ慣れだと叱責された」と、「グレそう」な私たちの気持ちをあますところなく書いてくれました。

 「グレそう」に相当する言葉はここのところよく見ます。なかでも「緩んでいるのではない、すり減っているのである」という言葉はこの状況にこれ以上ないくらいぴったりだと思いました。思いましたが、どこで読んだか忘れてしまい、どなたがどこで書いたものか、「何の何」すらわからなくなってしまいました。申し訳ありません。「すり減っている」のところの表記が(おそらく)不正確なせいで、一次情報までたどりつけそうにありません。

 私はこのところ、素朴に「ダークサイドに墜ちそう」と思っていました。今、"STAR WARS" の epi. 1 − 3 を見たらぴったりよりそえそうです。

 私が墜ちそうで「それだけは勘弁」といちおう持ち堪えているダークサイドについて、以下にまとめます。

 人の話を聞いたり読んだりするとき、私は、相手が本当のことを言っているという前提で臨みます。本当のことというか、確かなこと。話者はそれなりに話者として責任をもって、確かで、まとまりのあることを言っているはずだという前提で相対しています。

 最初から「嘘ついているかも」とか「でたらめ言ってるかも」と思って臨むより、 早く読めるし、「ここに書いてあることは、少なくともこのなかにおいては正しく、つじつまがあっているはずだ」という構えで読んだ方が誤読も減らせ、何より最終的には楽しんで読むことができます。

 また、その内部に矛盾があったり、間違いがあったりした場合も、この読み方の方が即座に反応できます。

 考えてみれば当然で、疑ってかかると、それだけ余分な力みが生じ、肝心なところが読めなくなるし、読みながら行ったり来たりすることになるので、せっかく読みおおせたのに聞こえるのは自分の声ばかり、ということになります。

 よく、ニュースなどで「真意は」とか「その狙いは」とか言っているのを耳にしますが、「真意」や「狙い」の前に、事実を受けとめる必要があるのではないかと思います。目に見える言葉のつらなりをいちおうはその通りに受けとめ、味わい、その言葉のなかで呼吸してみる。「真意」だの「裏の意味」だの「行間」だのを考えるのはその後にすべきです。

 それがこのところ、情報の発信者の確かさを気にしてしまうような事態が目前で展開していて、気付けば「この人は嘘つき」とか「この人は悪い人じゃないけど、でたらめを言う」とか、そんなレッテルはりをしてしまっています。

 これが噂に聞くダークサイドかあと思っています。

 これはほんとに困ったことだし、よくないこと。

 私も子どもの頃は嘘つきでした。現在でも、嘘つきの傾向は、自分に大いにあると感じます。嘘、言いたくなるので。「自分には、嫌いな人なんていない」とか「嫌いな映画はない」とか「嫌いな小説はない」とか、言ってみたいときもある。風がざーーーっと通過するだけの虚無を気取りたいときもある。

 しかし、嘘をつくと事態はややこしく、二度手間三度手間になり、以後、話者としての信用を失うだけで、なにひとついいことがありません。

 私が嘘を言わない習慣を身につけたのは学校です。そこで、間違いや失敗は恥ではないこと、事実と価値を分けて考えること、目的と手段を分けて考えることなどを学びました。もっとも大きな学びはフェアネスについてです。フェアネスを目指すこと、つくりあげること、維持することが、快適さにつながると学びました。それは先生方がフェアに接してくれてていて、また、「フェアに接しますし、常に公正であるよう、気をつけています。もし先生が間違っていたら指摘して」とちょくちょく明確に意思表示してくださっていたことが大きいです。

 クリーンでオープンな状態に自分の言語体系を保っておくのが結局いちばん楽で快適です。だから、書いたり話したりするときだけでなく、読んだり聞いたりするときも、私は相手をひとつのクリーンかつ複雑な言語体系として尊重しますし、あまりややこしいこと、つまり、上になったり下になったり、そういうことはせず、単に読み、聞きます。

 この構えは失いたくない。

 と、思っているのですが、ステイ・ホームとゴー・トゥー(・ヘル)の間を行ったり来たりされたり、当面イベントは禁止しますがオリンピックはやりますとか言われると、言っている側の主体性、統一性、一貫性などをつい、疑ってしまいます。

 私に疑われても向こうは全然困らないと思うんですが、この疑いが高じて条例や法律、各種リリースを軽んじるようになると、私自身が後々困ると思いますし、あとあんまりそういう、「流し読みで『どうせ何言っても市民の声なんか聞かないんでしょ』と冷笑して済ませる」みたいな構えを自分に取らせたくないです。

 実は何年も前から日本政府の言うことはあんまり信用できていないのですが。それでもいちおうは都度都度、出来事に応じてなるべく「かっこ」でくくって、新聞を読み、ニュースを聞いているのです。でも「46 %という数字がぼんやり浮かんだ」などと大臣に言われると、「以後、日本政府の発する数字は一切信用しないことにしよう」とかつい思ってしまうわけなのです。

 おわりです。

 これだけなのもなんなので、近所のつつじ山の写真を貼っておわりにします。

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ばいばい