プール雨

幽霊について

言葉に目覚めたい

 6 月 16 日「朝日新聞」の朝刊に言語学者、庵功雄のインタビューが掲載されていました。

www.asahi.com

 日本語ネイティブではない人たちが必要な情報を得るために設計された「やさしい日本語」を、あちこちでみかけるようになりました。「日本人と外国人が意思疎通をするための共通言語」として考案されたものです。文のパターンを 30 種ほどにしぼり、平易な語彙を用いてひらがなで表記されます。地震など、災害が起きた際には放送などでも用いられています。

 この「やさしい日本語」の設計と運用は、母語が日本語でない人たちにとってだけでなく、日本語ネイティブにとっても重要な意味をもつとインタビューでは述べられます。

これは、菅義偉首相が記者会見の質問にまともに答えないことにもつながる話です。菅さんを批判するのは簡単ですが、自分たちも同様に、「言わなくても分かるだろう」と説明をせずに済ませていることが多い。異文化との接触はこの前提を変えます。

 日本語日本文化では「察し」や「雰囲気」を重要視し、言葉を軽視する傾向があり、そのために日本語話者の多くが自分の判断や意見を明確に話し、その判断の理由を説明することに長けていない、場合によってはそうした営みを忌避する傾向すらあります。日本語のネイティブではない人に対して、「やさしい日本語」で必要な情報を渡すことを通じて、この母語を俯瞰し、鍛えることにつなげていけるはずです。

行政、医療、法律などの専門家が一般に人に伝えるとき、難しいことを難しく話したがる傾向がある。私はこれを「難しさへの信仰」と呼んでいます。「よらしむべし、知らしむべからず」という論語の言葉がありますが、説明はせず、こちらの言うことを聞いていればいいんだ、という傾向は今も続いています。

 「国民は政府を頼ればよい、政策を知る必要はない」という現政府の態度は、それゆえ支持を得ているのだろうと思いますが、しかしそれゆえにこそ言葉は軽視され、意味を剥奪されています。もはや「誠心誠意」「丁寧な説明」「安全・安心」といった言葉は何の意味ももちません。市民は政府から発された言葉自体ではなく、「裏」や「事情」を読まされる不快な状況が続いています。

 天皇の「懸念」を宮内庁長官が「拝察」したと記者会見で発表しましたが、最初から最後(?)まで、とても複雑なコミュニケーションだと思います。宮内庁長官が、明言されなかった(らしい)天皇の「懸念」を「拝察」したと延べる(この過程は記録されているのでしょうか)。それを政府が長官の「意見」と捉えたと表明し、天皇の「懸念」は問題にしないと態度で示す(この決定の過程は記録されているのでしょうか)。そして市民は「天皇の『懸念』で話が動くと越権行為だし民主主義の否定につながるから大問題なんだけど、それを『拝察』というかたちで表に出したということは、たぶん、中止というカードもちらついているんだな……どうなのかな……」とか、「空気」を読まされる。おそらくはそのように読むということを想定して、事態がずるずると動いていく。この、ばかばかしいほどの複雑さの果てに、「情報」と呼べるものは果たしてあるのか。

 日本政府は科学的でない、科学の知見を政策に反映できないとよく言われますが、科学的でないという以前に、論理的でないし、言葉が拙い。主体的に言葉を用いていないし、かといって言葉にハンドルを渡しているわけでもない、奇妙な言語状況が広がっています。単純に「何も考えていないし、情報もつかんでいない」という姿にも見えるほどです。

 自由な発言が許されない天皇も、政策決定の場から徹底的に疎外されている一般市民も、日本で生まれて日本で育って日本語が母語なのに国籍を与えられない人たちも、日本で働いて生活しているのに文化とやらの壁にはばまれて情報を得ることができないでいる人たちも、そして、意味のある言葉を直截に表現できない政府のお歴々も、みんな、尊厳を傷つけられている、そんな状況だと思います。

誰でも伝えたいことがあれば、つたない表現でも何とか話そうとする。それは主体的に生きようとする上で、人間の尊厳にかかわる大切なことです。

 この 20 年くらいで圧倒的に変わったと思うのが、日本におこしになる、日本語が母語ではない人たちの日本語能力です。理解されていると感じる。日本語教育の充実を感じます。そうしたら、社会の方も変わっていっていいんじゃないでしょうか。いろんな水準の日本語で、いろんな水準の日本語と生きていく。そんな風に変わっていきたい。

 とりあえず、政府のひとは「やさしい日本語」を読んで話すところからやり直してほしい。

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