プール雨

幽霊について

長い追記

 

poolame.hatenablog.com

 上記日記への追記:

 私は短いサイクルで自分の言葉遣いを見直すので、人からすると「変節する」という風に見えるかもしれません。

 例えば今、基本的に私は「上から目線(で)」という言葉を使いません。「えらそう」はたまに使います。そのうち「えらそう」も使わなくなることを自分に期待しています。

 「上から目線(で)」の運用は、おもに「メタ視点で」と言うべき場面と「えらそうだ、威圧的だ」と言うべき場面にわかれ、そのどちらもすでにその状況を言い表す言葉があり、言い換えの必要を感じません。また、「上から目線」と自分が言いそうになった場面を検討すると、相手がメタ視点に立っているか威圧的に振る舞っているかという以前に、自分が必要以上に卑屈になり、勝手に「下から目線」に立っていると考えられました。単に相手はミスなどの事実を指摘しているだけで、また、どうしても指摘しなければならないない中で極力フラットに発語しているにもかかわらず、私は気恥ずかしさや気まずさをやりとりにまぜこみまぜこみして、世にも複雑な「上から目線」の場面を発生させていました。これは相手にあまりに申し訳ないし、第一に卑怯で、第二にややこしいので、それなりの努力を重ねて「上から目線」を自分の言語体系から追い出しました。

 こういうことを繰り返していると、文体までころころ変わります。私はもともと文体にゆれがある方なので、なおさらです。

 でも、言葉は自分が所有するものではなく、みんなと共有するものなので、これでよいと考えています。広く共有できる言葉遣いをしているか、これは常に私の課題です。

 人の言葉遣いが変わっていく様子も、日々目にしています。以前は同性愛者に対してきわめて侮蔑的な態度をとっていた人が何年もかけてその偏見を変えて、偏見のない言葉遣いに慣れていく様や、東日本大震災のころはデモと聞いただけで嫌悪感をあらわにしていた人が市民活動について共感を示していくようになる様を、逆に、夏になると太平洋戦争のことに思いをはせ、戦後の様々な施策に対して心を痛めていた人が、「70 年以上前の戦争のことなんてもういい」と言いだし、民族差別までするようになった、そんな様々な変化を目にしてきました。

 人の言葉遣い、そして考え方振る舞い方は変わっていくので、ずっと昔の言動を掘り起こして、「こんなことを言っていたじゃないか」と責めるのはあまりよくないというか、手間暇かけないと話がややこしくなるので、それをする場合には史料を時系列順に整理し、批判、批評の水準まで高めてから行うべきです。

 小山田圭吾の場合は史料がきっちり出そろっており、そのために、これまでも時折話題として上がっていました。「クズである」と。小山田圭吾はずっと沈黙していました。そのため、「クズである」で話は止まっていました。

 話はかわりますが、音楽家と活動家は基本的に活動が重なるもので(一部の閉じた世界では音楽は政治的に脱色されているという信仰がありますが)、大友良英坂本龍一ソウル・フラワー・ユニオン……と名前をあげていけば、その周辺に小山田圭吾もいます。

 しかし、彼はその中でもまとまった発言はしませんでした。発言することによって、昔の言動がクローズアップされれば、今している(チャリティなどの)活動にも支障が出ると考えたのでしょうか。だから、語らず、弾くという態度を意識的に貫いているのかなと想像するときもありました。彼は加害者で、加害者が付け焼き刃の、拙い言葉で広く発言すれば二次被害を生みます。加害者に「釈明」を許せば、加害者に被害者としてふるまうことを誘発もします。それで、黙って弾いているのかなとどこかでずっと思っていました。

 でもやっぱりそれじゃダメだった、ということが明るみに出たのが今回の事件だと思います。

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 「やってはいけないこと」は「いけないからいけないこと」で、なぜそうとしかいえないかというと、「やったら言葉の世界を越える」からだと思います。人を人として見ない、人に暴力をふるう、その人の人生を軽んじる、奪う、所有する、そこなう。その線を越えた加害者がもう一度言葉の世界=人間の世界にもどってくるのは容易なことではありません。自分が何をしたかを被害者にはならず、一貫して加害者として語り、そして、その言葉を他者と共有しながら生きていくということを公共の場でやりつづけた人は、日本語の世界では本当に少ないと思います。特に最近は、暴力を告発された人でそれをしおおせた人はおらず、ただただ二次被害を広げていくのが、様々な固有名詞をあげるまでもない、日々繰り返し私たちがさらされている事実だと思います。

 小山田圭吾がそれをやっていけるかどうか、この先は未踏です。