プール雨

幽霊について

田中小説大賞

 田中小説をご存じでしょうか。

 それは、「田中」が物語の展開上重要な位置を占める小説のことです。その場合、「田中」は佐藤でも鈴木でも伊藤でも高橋でもなく「田中」であることに意味があればあるほどよいとされます。

 近年のベスト田中小説はこちら。

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 名字ランキングトップ5に入ってしまう鈴木さん佐藤さん伊藤さん高橋さん田中さん、お元気ですか?

 私もまあまあ多い名字なので、たまに雑に「あの、めずらしくない名字の人」的な扱いを受けるときがあります。私の名前と文字面としては全然似ていない名前の郵便物が届いて「ああ、間違える気持ちわかる」と思うことも。

 今は病院でも図書館でも氏名ではなく番号で呼ばれますから、そういうことはもうないでしょうけど、昔は病院の待合室で「田中/鈴木/佐藤/高橋/伊藤さーん」と呼ばれると二、三人腰を浮かす、なんてこともありました。

 よくある名字だと、やはりなかなか「自分の名前」という感じが育ちにくく、興味もさほどわきませんし、仕事先で名字ではなく名前で呼ばれることにもまったく心が動きません(同じ名字の人が大量にいるため、「名前+さん」で呼ばれています)。

 鈴木さん佐藤さん伊藤さん高橋さん田中さん、お元気ですか?

 鈴木でも佐藤でも伊藤でも高橋でも田中でも、この際なんでもいいわ。

 そんな気持ちになることがありませんか? 相手が「(ええと、このひと、なんだっけ、よくある名字なんだよな)」という感じの曖昧な笑みを浮かべたときに、思わず、「なんでもいいんですよ、私の名字なんか。ごめんあそばせ」と笑顔で立ち去りたくなりませんか?

 私はありません。

 さんざん自分から言っといて申し訳ありません。

 自分の名字について、深く考えたことがありませんでした。

 長々と書いてしまいましたが、この夏最大のお楽しみ、それは、若竹七海の新作ミステリ、『パラダイス・ガーデンの喪失』でした。

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 兵藤房子が一人で管理運営している庭園、「パラダイス・ガーデン」。彼女の両親がこの場所を見初め、ここに理想の庭園をつくるんだ! と言い出して三十年。両親は他界してしまったが、房子はこつこつこつこつと働き続け、最近ではガーデニングのコンテストにも続けて入賞し、庭園の一隅で営むカフェも人気だった。相模湾を望めるこの場所で、「さあて、やることいっぱいだ」とその朝もはりきっていた。その彼女の目に、まだ早朝だというのに年配の女性がベンチに腰掛けているのが見えた。彼女の喉元にはナイフがつきささっていた。

 という感じで始まるのですが、この捜査にやってきた刑事について、こう書かれているのです。

葉崎警察署の捜査員はサトーだかイトーだかと名乗った。

 そしてサトーでもイトーでもなかったのです。

 ひどいじゃん。

 兵藤さんなら大抵一回で「ああ、あの兵藤さんね」って覚えられるだろうけど、そして若竹さんも大体一度で「ああ、若竹さん」って覚えられるだろうけど、「サトーだかイトーだか」って、しかもサトーでもイトーでもないなんて、ひどいじゃん。

 まあ、いいでしょう。

 この物語ではサトーとイトーと「サトーだかイトーだか」と認識されてしまう名字もさして問題ではないのです。

 ことは田中なのです。

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この後この田中さんがどうなってしまうかというと……

 ほらほら、ルビ付きの田中だよ!

 この田中はひと味違う。

 そう、すごい田中だった。「あの、めずらしくない名字の、えーと」と言われる田中で、その点ではいつも通りの田中なのですが……

 この先はいえないナ。

 神奈川県のどこかにあると言われる葉崎市。ここに出所したばかりの「日本一有名な殺人容疑者」やら、その元妻の息子やら、元妻の息子の元妻やら、元妻の息子の元妻の息子やら、もう。このどこに「田中」が潜んでいるか、どうぞお読みください。

 最後に一言だけ。

 警部補二村貴美子。すてきだ。

 二村貴美子の話だけをいつまでもいつまでも読んでいたい。

 以上です。

 

📚 おしまい 📚