プール雨

幽霊について

壁をちまちまとつきくずす

 ちかごろ新聞におどるのは「野党は批判ばかり」だから「若者に刺さらない」といった軽薄な言葉です。

  野党が「批判ばかり」で生産的でないと見られるようになった責任の大部分は新聞各紙をはじめとする大手マスコミにあるというのに、この無責任さに恐怖すらおぼえます。

 それにしても「批判ばかり」という、もはや羽でも生えているんじゃないかと思われるほど自由に飛び交っているこの言葉の勢いはまだまだ衰えそうにありません。

 今井絵理子が「批判なき政治」を目指すと言って批判を浴びた 2017 年、その感性に多くの人があわてふためきました。私もとても驚きました。「批判なき政治」ということは政府の発信することに粛々と皆が従い、政府が間違っても誰もそれを正さない政治ということで、それはもはや政治ではないからです。

 そのときも「若者」が注目されました。「若者」は批判が嫌いで、生理的とすらいえる拒否反応を示す、だから野党は支持を集められないといった論調でした。

 今、振り返ると、完全に後手に回っていたなあと思います。

 「批判」や「批評」に生理的に嫌悪感を示す人が多いのは何も「若者」に限ったことじゃありません。もちろん、教育現場の疲弊があり、現場で生徒の批判的思考を促すことに関心が向かないという問題があります。これはこれとして、問題として関心を向けていかなければならないこと。でも、今私が考えたいのはもっと素朴なことで、周りを見回すと、「批判」や「批評」に嫌悪感を示す人って、実際、確かにたくさんいるよなということです。

 例えば自分の生まれ育った家族を思い出すと、祖母は「偉い人の言うことを黙って聞け」と言い、母は「男が『烏は白い』と言ったら『そうだ』というのが女であり、場合によっては烏を白く塗るくらいのことはするべきだ」と言い、そういう二人の言動を祖父と父は当たり前の態度として受け容れていました。私は、そういう考え方を異様だと思い、自分の家族を「変な人たちだ」と感じ、どんどん家から遠ざかりました。

 要するに権威主義なのですが、小学生の私に「うちって、権威主義に覆われているんだな」と認識する能力はなく、「なんかこわいこと言っている」としか思えなかったのです。痴漢に遭っても「がまんしろ」「用心しないおまえが悪い」と言われるわけですから、家族も「世間」とやらも敵だとしか思えませんでした。

 私がそんな家の周囲でただ一人好きで、頼りにしていた大人が叔母で、彼女は「地位や職業、学歴がどうだろうと、いいことはいい、悪いことは悪い」という人で、そのすっきりさっぱりとした倫理観は小学生の私にとって唯一、安心できるものでした。

 この叔母を毛嫌いしたのが弟で、弟は彼女を「変な人」と言いました。私はそのたびに「どこが?」と言い返したのですが、その返答にびっくりして押し黙る弟の表情を覚えています。

 例えば叔母の夫、叔父が煙草に火をつけようとして、それを彼女が止めるということがありました。同席していた祖母と弟がぜんそくもちで、私もしょっちゅう風邪を引いている虚弱な子だったからです。叔父はそれで煙草をしまったのですが、これに弟が不快感を示しました。「おばちゃん、間違ってる」と言ったのです。すぐさま叔父が「なにも間違っていない」といったようなことを答えたのでその場は収まったのですが、私は弟の言動を奇異なものとしてよく覚えています。

 叔母は、自分の母と甥の健康を思いやって、また、ヘビースモーカーの夫の健康も思いやって「やめて」と言ったのであって、彼女の言動に間違いは一つもありません。また、弟は自身ぜんそくの問題を抱えているのだから、叔母に感謝こそすれ、「間違っている」などと指摘することはあまりに的外れだし、失礼でもあります。不可解ですらある。

 弟からするとしかし、この叔母の行動は「目上である、夫に対して批判的なことを妻が言った」「夫の行動を妻が止めた」という「非常識」なものであったわけです。

 権威主義が思考にしっかり根を下ろしてしまうと、「おばあちゃんや子どもたちがいるところで煙草を吸わないで」というお願いすら、「立場を越えてする批判」になり、越権行為と映り、とんでもないことなのでした。

 弟は顎で私に指示をすることがあり、そのたび私は「何を、いつまでにどうすればいいの?」と聞き返し、これに彼がかっとし「もういい」となるのがパターン化されていました。これも弟からすると「女が生意気にも男に質問をした」という非常識な越権行為なのでした。

 そして、この弟のようなものの考え方は日本語においてとても根強く、職場でも、ある男性社員にもっと優しくすべきだという注意を受けることがありました。遅刻が多い男性社員に対しては、まわりの女性社員があらかじめ予定を把握し、遅刻しないよう配慮すきだというのです。私たちは自分の仕事だけでなく、成人している同僚の面倒までみなければならないなんて。でもそれがそこでの「当たり前」なのでした。

 どうも、日本語圏の多くの人にとっては、立場の上下で態度を変えるのが「文化」で、下の者が上の者に対して質問することなど許されず、いわんや、批判的思考などというものは「生意気」で「分をわきまえない」ものなので、身につける必要はないという考えが「当たり前」のようなのです。

 出版社で働き始めた頃、同僚が「私は、書いてあれば『ああ、そうなんだ』と受け容れてしまうから、校正校閲はできない」と言うのをよく聞きました。そこに「自分は素直である」という自負の匂いも漂わせながら、彼ら彼女らは「自分は批判なんてしない、できない」と誇らかに言うのでした。

 このところの「批判なき世界を!」という潮流はそんな人たちがのろしを上げているということだと見ています。

 なぜのろしをあげなければならないかと言うと、それだけ、批判を目にする機会が増えたということなのでしょう。

 元々、この社会は問題のない社会なんかではなく、過酷な条件で働く人々にかろうじて支えられている、余裕のない社会です。古いインフラは修理されず放置され、あらゆる理不尽が構造的に残り、生存権に直結する労働者の権利がないがしろにされています。一つ一つ指さし確認しながら修正していかなれければ、今何とか立っていられる人も明日にはどうなるかわからない社会です。

 だから、元々批判は各所にあって、今急に起こっているわけではないのですが、それが多くの人の目に入るようになり、「批判すること自体」に嫌悪感を抱く人々を刺戟しているということなのだと思います。

 間違いは何にでもあり、批判や批評はそれらを修正ないし調整していくためにどうしても必要な、避けて通れない営みです。

 これを、今、政治家や新聞各紙が捨てようとしていることには気持ち悪さと恐怖を覚えますが、全体としては、一人一人の批判あるいは「苦しい、辛い」という声を上げることが、まとまりのある運動に結びつき始めている証拠かなと思える部分もあり、「朝日新聞はもう、本格的にダメかも。いわんや、テレビにおいてをや」とは思うものの、自分としては取るべき構えを取れているということかも、と考えています。

 

🌹 おしまい 🌹