プール雨

幽霊について

楽しみ、歓び、共有する

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花とコーヒーと本

 1 月 16 日(日)、百年の二度寝さんの主催で北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』の読書会があり、参加しました。

 百年の二度寝さんは私にとって「たった今、ほしい本が買えるお店」です。下にネット販売のリンクをおいてみました。2022 年 1 月現在、亜紀書房フェア開催中です。

mukadeya.base.shop

 北村紗衣はシェイクスピアの受容史、ファンダム研究を中心に活躍中の英文学者です。私の手元にあるのは『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち 近世の感激と読書』、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』、『批評の教室 チョウのように読み、ハチのように書く』の三冊です。ほかに飜訳や解説など多数の著作があります。

 読書会ではその文章のうまさも話題でした。簡潔、スピーディー、それでいながら楽しさに溢れている。開放的。

 本書(『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』)が追いかけたいのは、(ベネディクト・)カンバーバッチを見ようとバービカン(・センターの劇場)に詰めかけた女性たちの歴史だ。シェイクスピアには大きなファンダムがあり、研究者は否応なしにそのファンダムに組み込まれている。研究対象との距離がとりづらくなり、冷静な分析がしにくくなるので、ファンダムに組み込まれることを嫌う研究者もいるが、この本はそうではない。かつてマリリン・モンローの研究者グレアム・マッキャンは「自分の学問分野と対象のどちらかを裏切らねばならないならば、自分の学問分野を裏切るガッツが欲しい」と述べた。その気になればシェイクスピアを裏切ることはできるかもしれないが、あの時カンバーバッチを見にやってきた女性たちは裏切れない。 (『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』「序論 わたしたちが存在していた証拠を探して」p.9 より。引用文中のかっこ内は引用者による)

 楽しむというのは、ただ見て「面白かった!」と言うことではありません。もちろん、最初はそこから始まります。何かを見て面白いとか、美しいと思うのはとてもステキなことで、それだけで価値がある体験です。問題は、それだけでは満足できなくなった時です。

 ただ「面白かった!」がなんとなく物足りなくなってきて、もう一歩、深く楽しんだり、調べたり、理解したいな……と思う時に必要なのが「批評」です。 (『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』「まえがき 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門」p. 8 より)

 ここで注意していただきたいのは、深く考えないで作品を見て楽しむというのも十分価値ある体験で、深く考えた批評を行うという体験と優劣はつけられない、ということです。楽しみ方はひとつではないので、なんにも考えずに頭をからっぽにして楽しみたいという時もあれば、よくわからないものを深く掘り下げたいという時もあると思いますし、この楽しみの体験はどちらも素晴らしいものです。 (『批評の教室』「プロローグ 批評って何をするの?」p.14 より)

 『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』、『批評の教室』の三冊はテーマが違うので、読むにあたってはどれも別々の楽しみがあります。ここで引用したのは、テーマ以前の、著者の一貫した構え、起点が示されている箇所です。

 この著者はいつでも、作品を楽しむ経験それ自体のすばらしさを強調します。そのことによって、これまで批評や評論とは距離を置いてきた、ただの読者でありただのファンであるような「私」にも、主体的で自覚的な批評への道が選択可能なもう一つの道として開かれることになります。まずそのかけがえのない「楽しい」という体験を大事にしようと語りかけ、さらにもっと楽しみたいと思ったなら、批評があると言います。そのときに用いるのが「価値」という簡潔でフラットな言葉であるところに、ストイックさを感じると言ったら、言い過ぎでしょうか。

 でも、この押さえた、誰にでもわかる短い表現によって、私たちが映画や舞台を見て「きゃー!!」と言い、小説を読んで身もだえするときのすべてが肯定されていると思うと、味わい深いものがあります。

 読書会では『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』を読みながら私たちもきゃーきゃー言いました。

 そして参加者の多くが言及していたのが、「chapter 1 自分の欲望を知ろう」冒頭の「さよなら、マギー 内なるマーガレット・サッチャーと戦うために」でした。

 幕開けにふさわしいエッセイで、ここでは、ヴァージニア・ウルフが内面化してしまった社会的抑圧に「家庭の天使」と名前をつけ擬人化したエピソードを引きながら、「心の中の抑圧や不安に名前をつけて戦うこと」が書かれています。マギーとはマーガレット・サッチャーのことで、彼女は苦学の末男性社会に適応、成功し、今でも一種のロールモデルとなっている人物です。「野心を持った田舎育ちの変わり者にとってある種の憧れをかき立て」るマギーは、いつしか著者のなかで位置をしっかり占め、彼女が目の前の現実に違和感を感じるたびに、「常にきちんとした服装で、社会と波風を立てず、自分の成功だけに専心することを」求めてきます。利己的に、個人主義的に、エリートらしく、とそのふるまいを規定しようとしてくる。そんなマギーと著者の戦いがきわめて具体的でおもしろい。そんなアイデアがあるのかと驚きました。

 私たちはさまざまな抑圧をさまざまな段階で受けて育ち、それを対象化し、そこから自由になるのがとても難しく、大抵は抑圧を内面化してしまい、まず自分自身を抑圧するようになり、それをこじらせると次には他者を抑圧するようになってしまいます。

 それはよくあることですが、そんな不幸を反復して、結局年をとるとみんなが暴力を振るう側にまわっているということではあんまりです。よくあることではあるが、避けられないことではありません。

 著者が示している方法は魅力的です。うちなる暴力に名前をつけ、戦い、「さようなら」と告げること。これはいつでも始められる戦いとして有効だし、真剣でありながら、ユーモアもある。

 私もやたらと「まあまあ」と言うヤツが胸にすくっていて、こいつを斥けるために七人の人格を育て、その人たちによる合議制で内面生活をもり立てる方法を取っているくらいです。「まあまあ」のヤツの言うことはいつも同じで、「波風を立てるな」「その場を丸く収めろ」ということです。「自分さえがまんすればこの場は丸く収まる」というとき、私はその声に従い、間違いを犯し、その後悔で何年も棒に振りました。でも、その「まあまあ」に対抗するため、他の、心の中の七人がうんと言わなければ受け容れないという原則を打ち立て抵抗するようにしました。結果として、大人になってから絶交を繰り返すというあらっぽい人になりはしましたが、若いときのような取り返しのつかない後悔は背負わずに済んでいます。

 と、ちょっと話はずれてしまいましたが、読書会もこんな風に、話が横道にそれて行きながら、あっという間に時間が過ぎていきました。

 北村紗衣の本には楽しむことの肯定と、もうひとつ、大きな主張があります。それが「共有」への情熱です。『批評の教室』の章立ては一章から順に「精読する」「分析する」「書く」となっていて、最後が「コミュニティをつくる」です。読んで、楽しんで、その楽しみと歓びを言語化し、伝え合うことで、個人的なことのように思えた体験が共有され、互いに歓びをわかちう営みとなっていく。

 これ以上に楽しいことってあるでしょうか。

 

 

 

📚 おしまい 📚