プール雨

幽霊について

公論化する

 出版物をつくっているときに差別表現に出会ったたら、校正・校閲はどう対応するか。

 大西寿男『校正のレッスン 活字ととの対話のために』では、対応としてもっともよくないのは、クレーム回避のために著者に変更、削除を求めることだとしています。この対応は、差別表現を「別の無難な言葉に置き換える」だけの、安易な対処を生むからです。

 実際、「このままだとクレームの原因になります」と言いたくなることはあります。相手が対話に応じてくれないのではないかというおそれが生じたときに、ついそう言いたくなります。でも、「クレームがくる可能性があるから」という消極的で受動的な態度では、同じ著者、同じ編集者、同じ校正者の組合せで何度でも同じ問題が発生することになります。単に差別語を別の単語に置き換えることを繰り返していては、どこがどう問題かということについてチーム内で共通の見解が育たないからです。これでは、似たような対処を繰り返すうち、著者か編集者が「言いたいことも言えない!」と我慢しきれなくなることもあるでしょう。

 私は職場でそこまでの事態に出くわしたことはないのですが、テレビやネットを見ていると、「セクハラだ、パワハラだとうるさい」「何を言っても文句言われる」といった嘆きが人々の口からもれるところを度々目にします。

 確かに、安倍元首相を批判したことで「炎上」したかと思うと、今度は #MeToo 運動を批判して「炎上」したマツコ・デラックスの身になってみれば、「もう、何も言えない!」という気持ちにもなるでしょう。

 素朴な話で恐縮なのですが、受け手の反応を心配する前に、発信する側が何を書いてしまっているか、何を表現してしまっているかよく考え検討しあうことが大事だと思います。

 私自身は、どこがどう差別表現になっているかを指摘して、「……という意味で、差別表現/不快表現になっています。差別表現の問題としてご検討ください」と書き添えるようにしています。「クレームの原因となります。サシカエてください」と指摘した場合と最終的な表現は同じだったとしても、著者、編集者、校閲者、デザイナーの間で検討しあうことで共通見解を形成できるか否かというところで差が生じます。

 先述のタレントにも、「クレームが来た」「『炎上』した」でショックを受けるだけに止まらず、自分は誰にむけて、何を、どのように言ってしまったのか考えあい、話しあう機会があれば、この先が違うだろうなと思います。

 著者に差別の意識がなくとも、結果的に差別をうながしたり、固定化したりすることになっているというケースはたくさんあります。むしろ、明らかに意図的な差別表現(中略)を隠れ蓑にして、より無邪気で陰湿な差別の "空気" が私たちのあいだに漂っているのではないでしょうか。

 ひとつの表現をめぐって、差別についてより深く知り、より広くかんじる契機にすることができれば、その作品はもっとゆたかな力をもつことができます。著者にとっても、読者にとっても、また版元である出版社ほかメディアにとっても、たんなるリスク回避以上の社会的価値をおびるはずです。 (『校正のレッスン』改訂二版 p.68 より)

 これは出版される前に、作り手のあいだで見識を鍛え、合意を形成する過程の話ですが、出版後に問題が発覚した場合も同じ視点で考えることができると思います。

 以下は、クレストインターナショナル「キム・ギドク特別上映中止のお知らせ」です。

キム・ギドク特別上映中止のお知らせ
2021.12.07(Tue) 
 
 
キム・ギドク特別上映の中止について

12/18日(土)から予定していたヒューマントラストシネマ有楽町での上映を中止いたします。

当初、この特別上映では「キム・ギドクとは何者だったのか」というテーマを掘り下げるためにティーチインを考えておりましたが、最終的に諸々の事情により実現が不可能となった経緯があります。
複雑な問題が絡み合っているこの特別上映の意味を再認識し、その場を設ける必要性を改めて強く感じています。様々な問題を多面的に検証できる場を設けることを視野に入れ、再度検討したいと思っています。
上映を待っていてくださっていた方々には大変申し訳ございません。

クレストインターナショナル

 キム・ギドクは「鬼才」と呼ばれた映画監督ですが、現場での度重なる暴力が発覚し、告発されるに至り、裁判で有罪が確定しました。そんな中、COVID-19 感染が原因で病死。日本ではクレストインターナショナルが没後一年で特集上映を企画しましたが、上映に至りませんでした。

 映画界での暴力の告発が続いています。それもこれも長きにわたって、映画業界がそのマッチョな構造を温存してきたことの証だと思います。また、上記のクレストインターナショナルのリリースからも感じたのですが、映画関係者にはまだまだ、作品を発信する側がもつ権力性に鈍感な人が人が多いのではないでしょうか。映画を制作し、上映する側と、そこに参加する側の非対称性に気づかず、立場の違う相手に忍耐と沈黙を強いているのではないか。『映画秘宝』の元編集長がその権力性を意識せず、DMを通じて恫喝し、問題になったこともありましたが、どうもそんな感じがします。
 現在はリスペクト・トレーニングを取り入れる制作会社、制作チームもあり、権威勾配を利用した加害と被害の構造から抜け出そうと映画界の一部がもがいている最中だと推察できます。そんな、今このときに重要なのは、発覚または告発即禁止あるいは許容といった二文法的な手続きで事態の収拾を図ることではなく、「何があったか」「それはどのような問題だったか」について話し合い、公論化することなのだと思います。
 「最終的に諸々の事情により実現が不可能となった経緯があります」と、クレストインターナショナルは書いています。クレストインターナショナルからのリリースとしては、企画が公開された当初のものが印象的だったので引用したかったのですが、公式には残っていないようなので、上記を引用しました。私が気になったのは、暴力を告発された監督の作品をあえて上映するという企画であるわりに、リリースされた文言が貧弱なことです。「諸々の事情」と言いますが、その「事情」を、「暴力を告発された監督の作品をあえて上映するという企画」であるということ自体を、それがどういうことか自分たちで説明できるのでしょうか。キム・ギドク監督とそのチームが抱えていた問題がどのようなもので、それをクレストインターナショナルとしてはどう考え、今後、その作品群をどうしていくべきかということについて、まとまった見識といえるまで、その言論を鍛える機会がはたしてあったのでしょうか。そしてそこに、被害者に重なる視点はあったのでしょうか。
 小川たまか「"性暴力" 映画監督の追悼上映が中止、『作品に罪はない』論争に新たな視点」はこう指摘しています。
キム・ギドク監督が自らの権威(あるいは芸術無罪の風潮)によって暴力や性暴力を行っていた事実を考えれば、没後1年に合わせた特別上映というかたちでの「追悼」がはらむ危険性に気付いたはずだ。それは、監督にもう一度権威を与えることになる。

また、被害者の多くが沈黙を余儀なくされたのは、監督に権威・権力があったからだ。追悼上映は、本人がこの世から去ってもその権威・権力は残り続け、それを崇拝する人の存在を明らかにしてしまう。被害当事者にしてみれば、支配の構造がそこに再現される。加害者が表舞台から消えても被害者の被害後の人生は終わらないことに留意すべきだった。

 こうした言葉が、被害者、または被害者を支えようとする側からしか出てこないこと自体に疑問を感じます。

 差別表現や暴力問題では告発された側が「誤解を与えて申し訳ない」と言い、それで幕引きをはかろうとするため、「いや、そうじゃない」という反応を生み、くすぶりつづけます。くすぶりつづけますが、加害者側が問題を語れないため問題はずっと残り、被害者はますます孤立を深めさせられさえします。

 私は、自分が何をしたか、どういう問題があったか理解していない人に謝罪する権利はないと思います。謝る以前に、何をしたか語りあい、その点で合意形成を目指すべきです。

 突然ですが、おわります。

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おやすみなさい

📚 おわり🎥