プール雨

幽霊について

「真理が我らを自由にする」

 2022 年 2 月 13 日の東京新聞朝刊「新聞を編む」を切り抜いて取っておくことにしました。

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 石原慎太郎が亡くなった後の新聞各紙に踊った「石原節」の文字については、恐ろしいとも無神経だとも思いました。差別発言をそのように、独特な言い回しや表現の問題として矮小化する姿勢を感じたからです。

 これでは、新聞というメディアはこの社会の差別構造を維持・推進する側に立ちつづけ、ファシズムの一翼をになうのだと冷え冷えとした気持ちになりました。

 公共放送であるはずの NHK は捏造をし、新聞は政治家の差別表現を矮小化する。公文書は隠蔽または破棄され、政治家は公然と憲法違反、法律違反を行いながら憲法を変えようとする。気まぐれにテレビをつければ 5 分でハラスメントやいじめの現場を目撃させられる。

 気が休まりません。

 そんななか、東京新聞日曜日朝刊の「新聞を編む」、13 日版に掲載された大場司編集局長「言葉の作用 責任を痛感」には勇気づけられました。

「石原節」という語の用い方は俗用であり、メディアが中心となって世の中に広めてきた表現です。本紙は過去に何度も「石原節」の表現を使っています。(中略)差別発言を「石原節」として報じることは、読者の指摘通り「この人だから仕方がない」といった具合に、発言を容認することにつながります。

 よりによって新聞が、「差別発言を容認するような表現を繰り返してきたこと」と「政治家の暴言や失言を容認する風潮を生み出していったこと」についての責任を明確に語っています。

 自分たちが何をしたか、それはどんな働きをしたかについての正確な認識が新聞上で語られたことに安心しました。

 基本的に、政治家にヘイト表現を行われ続けると、一般市民には手の打ちようがありません。政治家自身が差別表現をまきちらさなくても、ヘイト表現に対して明確なノーをつきつけない限りは承認し、差別主義者を力づけることになります。まして、この数十年というもの、この社会では政治家自らヘイト表現を発し、差別主義者たちの言動を承認し、互いに支持し合い鼓舞し続けてきたわけで、その勢力は堅牢です。

 たぶん、もう勝てないと思う。公共放送が捏造し、新聞各紙がヘイトを許すくらいですから。

政治がヘイトを利用し始めると、手の打ちようのない危険な状態におちいる。マジョリティの得票に依存する現実政治の本質ゆえ、政治家たちはいとも簡単にヘイトを政治的に利用する誘惑に負けるのだ。移民、ムスリム、性的マイノリティ、女性などへの偏見を利用して、「わたしたち」の利益と安全を守るため、マイノリティである「あいつら」に対する怒りを作りあげる。 (ホン・サンス『ヘイトをとめるレッスン When Words Hurt』たなともこ・相沙希子訳 p.92)

 この数十年、「より排除されたもの」を利用して「あまり排除されていないもの」を動員する、極右政治家による「煽動」にただただ恐怖してきました。

 自分の無力さはいかにも残念ですし、働き盛りをただ恐怖してきたかと思うと悲しくもありますが、それでも、私は元気です。次のことをわかっているからです。

しかしながら、ヘイトは人々が提起する問題を決して解決してはくれない。つまりヘイトによって自身の利益を守ることはできず、安全を保障することもできない。(前掲書 p.94)

 「ヘイト」の部分を「歴史修正主義」と置き換えても「差別」と置き換えても通じることだと思います。事実から遠ざかっていては、自分を守ることもできない。

 言い換えると、事実に向き合うことだけが自分を守っていくことにつながりうる。

 これからどんどん権利が制限されていって、もしかしたら、私とあなたが会ってゆっくり話すことすらできないような社会が訪れるかもしれません。

 でもときに、あなたや私が放つ真実が、思いがけないところに届いて、一人の人が一瞬元気を出す、そんな夜もあるかもしれない。

 元気でいよう。

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