プール雨

幽霊について

2022 年 2 月の読書から

 2 月は『ヘイトをとめるレッスン When Words Hurt』と『「歴史認識」とは何か 対立の構図を超えて』を読んでいたら行ってしまいました。去りぬ。

honto.jp

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 ヘイト表現(ことばや文章だけでなく、象徴物や服装、パフォーマンスなどによる意思表示も含む)は「特定集団の否定的な姿を固定観念化」するものです。

 これは何も直接的なヘイトクライムやヘイトデモだけにいえることではなく、日々のジョークやからかい、そして時にはアドバイス、政策提言などにも潜んでいます。

 職場や家庭でちょっとしたジョーク、ときにはアドバイスのかたちでそれらが横行するとき、冗談だから、雰囲気がこわれるからと、マイノリティは沈黙を選択させられがちです。

 このときの沈黙は、自発的というよりかは強要されたものだ。社会生活で生き残るための不可避な選択なのだ。しかしこのような沈黙が続くと、だんだんとそのような差別的表現が正当化され、膠着化する。事実として定着してしまうのだ。(ホン・サンス『ヘイトをとめるレッスン』p.41 より)

 あいまいなほほえみと、消極的な承認に支えられ、時間をかけて差別意識、排除意識は強固なものになっていきます。こうなってくると更に、被害者にははねのけるのが難しくなってきます。

 こうした事態はどこでも進行していて、今や私たちを取り囲んでいます。どこから手をつけたらいいかわからないほど、社会では差別やいじめが横行していて、家庭の中ですら序列があり、被害者がいます。そこで『ヘイトをとめるレッスン』は「ヘイトには人為的介入が不可避」だと言います。被害者だけにヘイトを押しとどめる役割を負わすのは倫理的に問題があるだけでなく、現実的とはいえないからです。

 このとき重要なのがやはり「表現の自由」だと『ヘイトをとめるレッスン』は繰り返します。「表現の自由こそがマイノリティの平等を増進する」と。

 「表現の自由」は日本語のネット環境では主に萌え絵を楽しむ権利を主張するときに用いられるなど、かなり偏った使われ方をされていますが、そもそも、マイノリティの権利として意味があることです。圧倒的な立場の違いや、資本の違い、構造的な不平等などがあるときに、口を閉じない権利は、弱い立場におかれた側には「自身の人権を実現するための核心的な価値」をもちます。だから、私たちは、「表現の自由」を規制したり、毀損したりせずにヘイト表現の問題を解決することを目指さなければなりません。

 それは、ヘイトする側の行為を禁止し、処罰するための介入ではなく、「個人の権限を強化し彼らの対抗表現を支援する介入」になります。

 正しい情報を行き渡らせ、「各集団の範疇を超え上位範疇に認識させ」、ヘイトが根付かないように「環境形成する規制」を国家的、法的、制度的に支援すること。

「真の自由」と「実質的平等」のためにマイノリティをエンパワメントし、市民社会の対抗言論を活性化すること。(同 p.147 より)

 ヘイトの問題というと、どうしてもヘイト表現をする側に対する規制の方に意識が向きがちですが、そうではなく、その暴力にさらされている側の支援をすることが大事だというのは、たとえば公共の交通機関、電車やバスでの突然の暴言への対処をイメージするとわかりやすいかもしれません。

 電車内でときに、外国人や障碍のある方、乳幼児をつれた方、高齢者、小さな子などが突然暴言を浴びせられることがあります。社会の周縁にいるとされる人が、社会の真ん中で担い手とされる人に急に悪意を向けられたとき、まわりにいる人はどうすればいいか。何も構えがないと、人はどうしてもこの、暴力をふるっている方に意識が向きがちで、この人に言い返したり、どなったりしてしまいます。しかしこれは事態を解決に導かないだけでなく、さらに悪くする可能性があります。こういうときは、被害に遭っている方の方に何か、その暴言とは無関係な言葉をかけつつ(いじめでいうスイッチャーの役割)、その場所から引き離したり(シェルター)、それが出来ない場合は隣の車両からスタッフに連絡を取る(通報者)など、とにかく被害者を守ることで加害者を孤立させる方向に動いた方がいい。それが、加害者には「私たちはヘイト表現を許容しません」というメッセージになり、被害者を直接的な暴力からいったん守ることができる。こうしたことが繰り返されれば、すこしずつ公共空間がましになっていく。

 話は変わりますが、この『ヘイトをとめるレッスン』にしても『「歴史認識」とは何か』にしても、私たちが公共空間をどうつくっていくかということに関する入門書といえ、考えてみれば私は繰り返し繰り返し、こうした入門書を読んでいます。それで、すこーしずつ、ずこーしずつ、言葉が鍛えられていると思います。

 一直線に勉強する研究者や教諭のような人たちはやっぱり、すごいなあと思います。どんどん掘り進めていくし、どこからでもぐいぐい突き進んでいく。

 自分は行ったり来たりしています。

 『「歴史認識」とは何か』は、「ああ、戦後、わけわかんなくなっちゃったなあ」とか、「従軍慰安婦問題って耳にするだけで気持ちがひゅっとなっちゃうなあ」とか不安に思っているような方におすすめです。

 アジア女性基金の理事として尽力した法学者、大沼保昭に、ジャーナリスト江川紹子が現在の視点からインタビューしています。江川紹子が果たしているのは、専門家と、非専門家だが歴史の当事者ではある読者をつなぐメディアの役割です。彼女の質問によって読者が当事者になるとさえいえるかもしれません。江川紹子につれられて、東京裁判サンフランシスコ平和条約……と戦後日本の進んだ道を辿り直すことができます。

 印象的だったのは、大沼保昭が、私たちはみな「俗人」なんだ、それを忘れてはいけないと強調していることです。秀でたところもあれば劣ったところもある、間違いも犯す。そんな私たちがしてきたこととして考えれば批判もある東京裁判の、あの時期あの場所で尽力した人々の達成できたことも見えてくる。ベトナム反戦運動の日本社会における価値もはっきりするし、報道が冷淡だったアジア女性基金の仕事の実態も理解できる。

 そうしたでこぼこの、しかし、平和を築きたいと願って行動した人々の成果として今が見えてくるとき、やはり「戦争」を外交手段の一つのように考えるのは事実の(卑怯な)矮小化だし、戦争に対しては「ノー」と言い続ける以外にないなという自分の視点も明確になります。

 毎日のことにお見舞い申し上げます。

 いろいろありましたが、そんなわけで、私は元気です。

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かわいい

 ではまた。

 

📚 おわり 📚