一回目は興味本位で高校生のとき。なんか不快で、うまく咀嚼できなかった。破廉恥すぎてわけがわからなかったというのもある。その頃は村上春樹、村上龍、島田雅彦、山田詠美、吉本ばなななんかがアイドル的に人気のある作家で、教室の中をぐるぐるまわって貸し借りしあって回し読みしていました。今振り返ってみると、どれも大好きではなかったんだけど、高校生で、まだ己を知らないのでがまんして読んでいた。
あのころ、ほんとにおもしろいと思ってたのは漱石とクリスティーでした。現代作家は背伸びしてがんばって読んでいたけど楽しんでいなかった。
ふりかえれば、がまんして読んでたのって、いっぱいある。ほとんどそうだったかも。
大人になって、都合が生じてどうしもて『ノルウェイの森』を読まねばならない事態に至りました。で、大人なので、高校生のときよりは楽に読めるだろうと思って臨むとなんと、よりきつく感じられるようになっており、私は「うーーーーーーやだーーーーー」とうなりながら頁をめくったのでした。
村上春樹は読まねばならない都合が生じる場合が懸念されるので、家にいくつか、本自体は置いてあるのですが、できれば読みたくない。
で、そうだよね、村上春樹、やだよねえって話をしたいのではないのです。まったく。
それはあまりに不毛なので、したくないのです。
やるならがつっと根拠を示して批判したい。
そうなのです。
自分で何が嫌なのか、よくわからないのが問題なのです。
一つの構築物として破綻しているとか、構造に欠陥があるとか、私はわりとその辺は「あるな」くらいで重要視しない傾向があるので、多分、嫌なのはそこじゃないんだろうと思うのです。文学部でよくかわされる、虚数が出てきて数学についていけなくなったって話がありますが、私は虚数に対しては「まあ、便利」という方で、そういうホラに対しては無神経なのです。
主人公がイヤなヤツっていうのも、わりと大丈夫な方です。ジブリの『風立ちぬ』も、堀辰雄の中短編も主人公図々しくてきもいけど、大丈夫です。
きどってる、なんていうともう、程度問題になってきてしまうし、自分はハードボイルドが好きなので、きどってかっこつけてる人は別に嫌いじゃない。板に付いていなくて気まずいなって思うときはあるけど、だからって「消えてくれ」とかまでは思わない。
虚構と現実の関係について、虚構が従で現実が主なのではなく、相互に往還があるっていう主張に関してはもう、首肯する。言葉ひとつで世界は変わるっていうのも、事実だなと思う。
ただ、核心に切り込んでいくときに、あえて遠回りに行くのが実は一番の近道だという(おそらく伝統的な)考え方がプロットとしてがちっと小説に組み込まれる、そのやり方にちょっと、不誠実なものを感じる。
恐怖とまでは行かないけど、なんかそこが嫌。
その部分を自分でうまく理解することができないので、機会があればいやいや読むのではないかと思う。