プール雨

幽霊について

愚痴と悪口、誹謗中傷の距離

 ネットでは時々、引用について「勝手に引用する」とか「独断で引用する」のような不可解な言葉遣いが見られるのと同時に、はっきり引用だと示さず、どこかからひっぱってきてつぎはぎしたような文章も見られます。

 引用は基本的に「勝手に」するものです。しかし、それが引用であることがわかるようにしておく必要があります。著者、作品名などの情報をつけ、そこから引用元、出典をたどれるようにしておくのは、引用する者の義務です。

 情報は公開されていて、外部につながっています。だからこそ、どこからどこまでが誰の著作なのか明確にしておく必要があります。そこをふせて、さらに文体をちょこっと変えて自分の文章に紛れ込ませたなら、それは剽窃です。仮にそれが著作権法に触れることを、剽窃された側が裁判で証明しきれなかったとしても、まあ、剽窃したという事実は残ります。それは当人がよくわかっていることでしょう。

 引用する場合は引用の範囲と、原著作者、著作名、出版社名、必要な場合は出版の日付や版数、雑誌なら巻・号数などの情報を公開する、というのは誰でもどこかの段階で必ず教育を受けているはずです。

 事細かに詩歌は二字さげで表示するといった表示上の約束事を教わらなくても、他人の著作物を引用するのだから、自分の文言とは区別しないとな、という意識はだれでももっていると期待してよいことだと思います。

 それがこと SNS となるとおかしなことになるのはなぜなのでしょうか。

 SNS への書き込みは手軽ではありますが、リリースした瞬間から公開されているという点では、出版物といっしょです。

 でも、書き込みが手軽な分、「公開されている」という感覚が薄い書き手が多いと思います。「勝手に引用しないでくれ」といった不可解な要求が時折なされるのと同時に、コピペが横行するのはそのことの表れではないでしょうか。

 この「公開されている」という感覚が醸成されにくいことの結果として、デマや誹謗中傷の横行もあると考えています。

 Twitter を利用して何年も経ちますが、今のアカウントで登録する前に、ちょこっとやってみた期間があります。一年ほどだったか、半年くらいだったのか忘れてしまいましたが、いずれにしろ短期間ですっかり嫌になり、ある日ぱっとアカウントを削除しました。

 そのとき、Twitter に対して抱いていた印象は「でたらめが横行している」というものでした。明確なデマから、意図的に読者が「誤解」をするよう巧妙に仕掛けた嘘、その場しのぎの嘘、事実誤認による間違い、コピペまでグラデーションがあるなか、大雑把にまとめると大小のでたらめが横行していて、「こんなことしてたら大変なことになるんじゃないかな」と思いました。

 でも後で、「これは大変なことの始まりじゃなくて結果だ」と気づきました。今、言葉、大変なことになっているなあと思います。

 でたらめのなかでも私が恐怖をおぼえるのは「真実や事実に興味がないタイプ」です。相手の投稿をろくに読まずに、誹謗中傷を執拗にし、さらしあげにするタイプです。そういうことをしているときにポイントなのは、匿名だということだと思います。匿名で、相手から見えないところから撃つ。嘘でもでたらめでもとにかく撃ち続ける。相手が被害を訴えたら、さらにそれを仲間たちと共有して楽しむ。

 そういう加害行為が公開の場所で行われているとき、事態はとても複雑になります。まず公開している場所の責任が問われます。プラットフォームとして、Twitter は責任を果たせているといえるか。いえないでしょう。それから、加害者に何千人もフォロワーがいるようなケースもあります。鍵つきアカウントでフォローしあっている相手にしか見えないから差別発言をしていいということにはなりません。加害者をフォローし、日常的にその言動を目にしている人々に対するハラスメントにもなりますし、場合によっては「暴力に対して沈黙させる」という暴力をふるっているということもありえます。

 そしてそもそも、それが公開の場で行われている以上、いつ、どこで誰がそれを問題として可視化してもおかしくありません。

 当人たちは、居酒屋の個室で破廉恥な発言を続けていたら、突然四方の壁がコントのようにバーンと倒れて衆人環視だったった、というくらいのショックを受けているかもしれませんが、残念ながらそもそもの最初からまるみえだったのです。

 そしてよく「居酒屋で、仲間内で言うならいいけれど」と言われる差別発言、誹謗中傷ですが、居酒屋でそういう発言をしたら、まずそのお店にとって大迷惑です。たまに居酒屋で酔った勢いで「本音」と称して差別発言をする人がいますが、そのとき、まわりの客に聞かせようという気持ちがまったくないとは言えないでしょう。「観客」がいるから、大きな声で日頃の鬱憤を晴らしたくなっているんじゃないですか。

 じゃあどこで、そういう愚痴をこぼせばいいんだと言いたくもなるでしょう。愚痴ならこぼせばいいと思います。自分にかかわる事実を、考えて、言葉にして、親しい人に打ち明けるのは大切なことです。打ち明けられた人も「ほかならぬ自分に打ち明けてくれた」と真っ向から耳を傾けるでしょう。なにか心のなかにもやが立ちこめていて、悲しみや怒りに押しつぶされそうなとき、その言葉をまずはそばにいてくれる人に届くように、次に、少し広いところで響かせられるように、そして最終的には公開されても大丈夫なように鍛えていけばいい。

 よく、「本音と建前」と言って建前で本音を隠すことをよしとする言論がありますが、本音を外に出せるくらい鍛えたら、いつか建前が不要になります。

 心のなかで誰かを悪し様に罵っていても、法で罰されることはありませんが、結局、その言葉に食い荒らされるのは自分の人生です。そんなことになるくらいだったら、本音を鍛えてみてもいいんじゃないですか。

 あるアイドルが SNS の鍵アカウントのようなものを利用して愚痴をこぼしているのが流出してしまい、謹慎になったことがありました。最初にこのニュースを聞いたときは「なんでそのくらいで謹慎?」と不可解に思いました。後で知ったことによると、そのアイドルもまた、事実ではないことを元に関係者の悪口を書いている部分があって、そのことについて反省する時間が必要だったという話で、ああ、そうだったのか、それは間違ったことだし、気まずいだろうし、そうか、大変だなあと思いました。

 そのアイドルにしても、ウィル・スミスにしても間違いを認めて、一旦公共の場から距離を取り、反省し、そして戻ってくるわけで、そこまでしたら、もういいってことになる。

 石川優実著『#KuToo』への引用に対して見られた過激な反応は、自分たちの密やかで楽しい悪口共同体が「さらされた」ことに対する生理的なものなのではないかと思います。こそこそと悪口を言い合うことになぜ自分がはまっているか、それをなぜネットで行いたいのかと考えてみてほしいです。それは簡単に相手に届くからでしょう。そして問題になったとき、「いえ、あなたのことだけを言っているんじゃないですよ」と言い訳ができて、さらにはアカウントを削除して、ないことにしてしまえる(ないことにはできませんが)という手もある。安全圏で悪口を言える場所に固執しているという、自分が今いる地点に気づいて、引き返してほしいなと思います。