この二週間ほど、仕事の納期直前で、どっきりしたことや不安についてじっくり考えて句点をつけることができなかったので、いろんなことが頭の中にたまっていきました。
「おもしろい話」なんかいらない
失言・暴言はたいてい「実際には業務に携わっていないが、地位はある人」の口から出て、一旦その場にいた人たちに受け容れられ、のちに流出して問題化します。偉い人は「偉い人だから敬う」という人たちの壁に囲まれているので、「ひどいことを言った」という感覚がなく、どちらかというとサーヴィスで言いました、いいことをしたつもりなのに、とふてくされさえしますし、現場にいた人たちも「一旦受け容れた」という事態の正当化にあくせくします。
そして大抵、問題になって謝罪めいたものがリリースされると、その偉い人たちの周囲からその人をフォローする人たちが現れて、「彼はみんなを楽しませたつもりなのに、洒落のわかってないヤツがいたせいで問題になった」というところに話を持って行こうとしているうちに、どんどんひどいことになります。
石原慎太郎にしても麻生太郎にしても森喜朗にしても、また経済界の大物のみなさんにしても、著名なコンサルティングの人にしても、この「実際は業務に携わっていない人がその場しのぎの『冗談』で場を盛り上げようとするとき」に事件は起きてきた、ということについて、私たちは一度、ゆっくり考えてみた方がいいんだろうなあと思います。
業務に携わっておらず、下手すると経験すらなく、そして「知らない」ということについて意識がないような人の話なんか、なんで時間と労力を割いて聞かなくちゃいけないんですかね? 元吉野屋の常務伊藤正明は自社の商品と顧客を貶め、「地方」を貶め、女性を貶め、男性を貶めたわけで、一体この人、何だったら知識があるんだろう? と思いました。素朴な話で恐縮なんですけど、会議や講演などで「みんなで話を聞いて話題を共有する」とき、「笑い」は不要で、そういう「おもしろさ重視」みたいなところにも間違いがあるのではないか。
以上は竹下郁子の記事と、朝日、東京新聞の記事を読んだ上での感想です。
「ウケがよい話」からヘイトクライムまで
「ちょっとしたいやがらせ、からかい」がヘイトクライムそしてジェノサイドと同じ階梯の中にある(「憎悪のピラミッド」)と実感できる出来事が続いています。
ウトロ地区で起きた放火事件について、非現住建造物等放火の罪などで起訴された被告は「ヤフコメ民の反応」を期待して放火したと供述しているそうです。相模原の障碍者施設殺傷事件でも、加害者は飲み会でその園の入居者に対する害意を口にしたとき、一番ウケがよかったと言っていました。
元吉野屋常務の事件でも、相模原の事件でも、ウトロ地区放火事件でも、そしてありとあらゆるいやがらせ事件にも共通しているのは、過激な発言を喜ぶ観客の存在です。
嫌がらせの扇動ですか?店主がひとりでいるときはそれもかまいませんが、店内にひとりでもお客さんがいるときはやめてくださいね。性加害に怯えず、安心していられる場所でありたいので。 https://t.co/dFKDWV3Wog
— 本屋lighthouse(ライトハウス)〈幕張支店〉 (@book_lighthouse) 2022年4月18日
放火事件で起訴されている被告は、現在も放火について反省はしていないそうです。すでに腕を振り下ろし、取り返しのつかないことをしてしまった後でまだ、その「個人的に恨みがあるわけでもなく、相手から何かをされたわけでもないのに、自分は他人に暴力をふるった」という事実に向き合えていません。どこをどうしたら現実に出会うのでしょうか。彼はまだ、「ヤフコメ民」とともに楽しんでいる。「憎悪のピラミッド」の一番下にいて、楽しく、会ったこともない人の悪口、それも事実と無関係な悪口を繰り返し積み重ねている気分で、実際もうその腕を振り下ろしてしまった。
事実無根の噂をまき散らして誹謗中傷を重ねる人たちからは恨みを感じます。何に対する恨みかはわかりません。その恨みと個々に向き合って、さっさと自分を知り、事実に触れ、デマと煽動から自由になり幸福になってほしい。自由で自身の尊厳が守られていると感じられる状況になければ人は反省なんかできないと思うので。
突然ですが、おわり。