プール雨

幽霊について

よしなしごと(2)

 この数週間、納期前でどたばたしていたときに頭に浮かんだよしなしごとをまとめて書いています。振り返ってみると、「校閲しながら執筆もする」という作業がなにか、脳に悪影響があったらしく、最終的にちょっと気持ちがぼろぼろになってしまい、「卒(亡くなるという意味)」の文字を見ただけでひゅーーっと(気管支炎のときみたいに)なり、涙が出るようになっていました。もし、あの作業をもう一度することがあったらやり方を変えよう。

線路脇に突然華やかな花が咲いており、どっきりしました

沈黙について

 沈黙を強いるのは暴力の始まりだなあと思っていて、自分がいつ、相手に口をつぐませているか思い返してみました。それはやっぱり自分がずっと勉強していることについて、ネットで拾ってきた(らしい)、ほぼデマと言えることでからかわれたり、嘲われたときです。

 多分、相手もそのときには「黙らしてやろう」「ばかにしてやろう」とか思って言っているので、お互い様ではあるのですけど、思い返してみると、そういう相手との関係はほんとに不健全で互いに手に余るので、距離を置くのが正解だと思います。SNS ならフォローしなければいいし、保険をかけてブロックしておくのもいいでしょう。でも、それがきょうだいということにもなれば、どうしても会わなければならないときもあり、とても気が重いです。表面上にこやかに、しかし会話が勝ち負けの細道に突入し、互いに互いを黙らせようとするとき、地獄がどこかにあるとすればここだな、と思います。

 会話はつながりひろがりころがるものだと思うので、地獄の細道に行きかけたら、「この話はよそう」と道を塞ぐのがいいのかな。

「やつら」について

 「やつら」のようなものはなるべく認識しないように、少なくとも表明しないように気をつけています。

 自分が「やつら」とうっかり考えてしまうとき、例えば「お偉い方々」のような見方をしているとき、とても冷たい気持ちになっていることに気づきます。相手を人間のように羞恥心やためらい、良心のあるものだとは見ていなくて、機械のように見なしているのです。ほんとに人間なのか? と思うとき「やつら」と言いかけています。

 勝手ですけど、自分が「やつら」呼ばわりされると傷つきます。SNS を始める前はあんまりそういう機会がありませんでした。SNS だと、自分が「やつら」呼ばわりされているところを実際目にしてしまうわけで、そういう風に括られて捨てられてしまうと、もうこの書き手とは無理だよなあと感じます。

 「主婦連中」「スケオタのやつら」「映画好きな人たち」「おばさんたち」などなどから始まって、ストレートに「奴ら」というのもありました。

 同じ人から三回「やつら」呼ばわりされたら、基本的にはシャッターを下ろしています。

 そういう「やつら」がほのみえてしまう瞬間の心が冷える感じは、自分もわかるので、「そういう思いをさせて申し訳ない」とも思います。

 が、それは差別の一里塚かもよと。

 たとえばあるタレントがよく「女ども」って言うんですけど、そこには「自分には理解できない、薄気味悪いロジックで動く連中」っていうニュアンスがあって、そういう見方をしているその人が心配になります。

 そういう落とし穴って、自分にもすぐそこにあって、自分は適応力がない方で、新しいルールを覚えられないので、スポーツ見ない、ゲームやらない、アニメ見ない、ドラマもそれほど見ない、ってんで、例えば Twitter 上で交わされる会話のほとんど大部分がわからないのです。あの字数で固有名がわからないとほんとに何のことかわからない。だから「わかんないなあ」と思いつつ読んでいるのですが、多分あそこで、何か爆発的に流行するものがあって、ぱっと見た感じで「みんな」がその話をしているように見える状況が生じると、「みんな」という認識の仕方をしてしまい、そこから「やつら」まであと一歩、ってことになるんだろうと思うのです。

 だから気をつけなくちゃなあ、と思って。これからわかんないことはどんどん増えるわけだし。

 自分は若くないから、あんまり脳に負荷をかけないよう、不健康な考え方のルートを遮断しておこうと思ったという、まとめるとそういうことでした。

今年、この花を初めて「きれいだ」と思いました

🌷 完 🌷