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幽霊について

「東京新聞」の「大波小波」には外れの回がある(2)

東京新聞」の「大波小波」は数人の書き手が匿名で書くコラムで、匿名であるがゆえのおもしろさもあるのですが、時折「署名記事だったらこんな書き方はしなかっただろうな」というものがあります。

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 2022 年 5 月 9 日の「大波小波」は中国共産党による歴史修正を枕に、セクハラの告発による「歴史修正」を問題にしていて、告発された人物がその業績を含めて批判対象になっていくことと、いわゆる歴史修正を同一視しているところに性急さを感じました。卑怯だなとも思いました。

 「権力を傘にした性的暴力は許されない。だが当の人物を業界から追放し、その過去の業績を抹殺するだけで事態は解決できるわけではない」と、「キャンセル」という言葉こそ使っていませんが、「追放」「抹殺」という言葉の使い方に、「キャンセル・カルチャー」の文脈が見えます。いつも思うのですが、政治権力が行う歴史修正のように、公文書が改竄または破棄されたり、テクニカルタームが書き換えられたりして過去を知ることが困難になるようなことが、こうした告発で本当に起こるのでしょうか。

 性的暴力を告発された人が裁判などを経、その過程で現在いる「業界から追放」されることはありえますが、そうはならない場合もありえます。たとえば裁判その他を通じて公に自分の行いを明らかにし、謝罪し、カウンセリングなどの治療につながり、二次被害を食い止めることに尽力した場合なら、機会は与えられるでしょうし、これとは逆に(あまりよくない事態としては)、業界がその人物を守ることを優先して問題を先送りすることもあります。また、「過去の業績を抹殺」というのは、どういう事態を指しているのでしょうか。業績を顕彰する銅像などが撤去されるといったことを指しているのなら、それはありえると思いますが、でも、「例えば荒木経惟のいない写真史、園子温のいない映画史は成立するのだろうか」。成立しないでしょう。アジア太平洋戦争後の日本の写真史というものがあったら、必ずやそこには荒木経惟が登場し、その業績とともに暴力行為とその告発などが記されるでしょうし、邦画史が書かれたら園子温の業績と現場での暴力行為、そしてその行為が継続的に行われることを許した日本映画界の構造といった問題が書かれるでしょう。そうでなければならないと思います。

 セクハラ・パワハラの告発には、いくつもの困難が伴いますが、そのひとつに、告発によって「当の人物を業界から追放し、その過去の業績を抹殺する」といったことが行われてしまいかねないという懸念があります。事実としてそうなるのではなく、そのような懸念が短絡的に生じてしまうことが問題です。

 考えてみたいのは、「業界から追放し」「過去の業績を抹殺する」といったことが起こりうるとして、それを行うのは誰かということです。それは告発者ではありません。単純に商品を回収し、その名前を業界から抹消してしまえばよいと考えるのは、その問題に触れること自体を恐れる、マスメディアや企業の側です。そしてそこにあるのはいつも自主規制です。告発者が求めるのは、「(ないことにされてきた)暴力行為や不法行為を問題化すること、明らかにすること」ですから、加害者を単純に「業界から追放し」「過去の業績を抹殺する」マスメディアや企業側の行為は告発者の口を塞ぐようなものです。

 多くの人が、この点から告発者を批判します。告発により、当該人物が業界から追放され、業績がなかったことにされる、あまりにひどくはないかと。告発者側には実際の被害という問題がすでにあるのに、告発したこと自体をまるで加害のように責め立てられるという二次被害すら生じます。でも、「追放」や無視、削除を行ってきたのはマスメディアや企業の側であって、告発者ではありません。

 暴力を告発され、解決を前に亡くなってしまったキム・ギドクの特別上映が中止になったのは、「映画監督が権力関係を利用して俳優やスタッフに暴力をふるい続けること」について(係争中に亡くなったこともあり)公論化がまだ十分になされておらず、また、上映主催者側にその動機がなかったからです。上映主催者は告発即「キャンセル」という思い込みに囚われていたのではないでしょうか。

 同様の思い込みに、2022 年 5 月 9 日付け「大波小波」担当者も囚われているように思います。社会の側が行う性急な結論づけ(削除や隠蔽)を「追放」「抹殺」と呼ぶことで、告発する側に責任を負わせてしまっています。

 こうした、告発即抹消という短絡がなぜ起こるのでしょうか。告発を耳にしたとき、私たちはなぜ「告発された側」のことを慮ってしまうのでしょうか。それは私たちが、この社会の一員として、日々社会関係の維持に努めさせられていることの証だと思います。その社会関係を維持する努力のなかに、差別や暴力があって、そこに加担させられ続けているという、シビアな現実があります。この点をいつも頭のどこかに止めておかないと、誰かが被害を訴えたとき、その口を塞ぐような言動につい走ってしまうわけで、それはとても怖いことです。

 告発する人も告発される人も同じ社会を生きていて、これからもそこで生きていきます。同じ社会で頭をおさえつけられた人がいて、おさえつけた人がいて、そういうときに、おさえつけられた人に「お前ががまんしていればこの場はおさまる」なんて言ってしまわないためにも、おさえつけた人がからめとられている社会関係、その差別の構造をじっくり語り合い、ときほぐしていく営みが必要です。その過程で積極的な言葉を獲得する、それが公共のものになる、そんな繰り返しでいろんなことが進んでいったら、きっと社会の側に変化が起きると思います。

これでおえるのも人として何なので、今日の花と月

おわり