プール雨

幽霊について

『ふたつの部屋、ふたりの暮らし』を見ました


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 ニナとマドレーヌは同じアパルトマンの最上階、二部屋をそれぞれに所有し、おだやかにふたりで暮らしている。ふたりは「ニナとマドは」というより、「ふたりは」と言った方がいいような関係で、ふたりで食べ、ふたりで切り盛りし、ふたりで楽しみ、ふたりで寝起きしている。そして、いつかはふたりが出会ったローマに越し、ほんとうに誰の目も気にしないところで暮らそうと約束し合い、目下その計画を実行に移そうと、所有する部屋を不動産会社に見せ、売りに出している最中だ。

 マドには娘がひとり、息子がひとりいて、その子たちとの会話から、彼女が長年夫に虐待され、それでも離婚しなかったことがわかります。マドは夫が亡くなって初めて自由を得、ニナとの生活を手に入れたわけです。

 マドは長年の、夫に虐げられた暮らしのせいなのか、元々の性格なのかわかりませんが、ちょっとした嘘をちょこちょこ言ってしまう人です。もう部屋を売る手はずを整え、次はローマに部屋を決めるという段階になってもまだ子ども達に「ここを出て行く、この部屋を売って、恋人とローマに移り住む」とは言えず、つい「あながたを愛しているし、誇りに思っている」などと言ってしまいます。

 このシーンでは息子が「思い出深い時計だ」とマドの部屋にある置き時計に言及します。マドにとってそれは辛かった夫との暮らしを思い出させるものなので、息子に「持って行っていい」と言います。しかし、息子は「あの時計はここにある方がいい」と応じます。「持って行ったら」と母親から提案されたこと自体に腹を立てているようでもあります。

 息子にとっては父と母がいた、そういう大事な場所にある大事な時計だからという意味ですが、マドから見れば息子の言動は、「いつまでも父の妻でいてくれ、それ以外は決して受け入れない」という宣言のように思えます。この息子は、父の母に対する暴力を知らなかったのでしょうか。その可能性はありそうに思えます。娘の方は知っていたようですが、その娘からすると息子は特別扱いだったようなので、マドもその夫も息子の目には多少夫が強権的な夫婦、という程度に映っていたかもしれません。また、息子はマドに「オヤジが死ぬのを待っていたんだろ」という言葉を投げつけていますから、うまくいかなかった夫婦関係の責任はマドの方にあると考えているようです。

 そんなやりとりのあと、てっきりニナに「どうしても言えなかった」と言うのかと思いきや、マドは「子ども達は受け入れてくれた、わかってくれた」と言ってしまい、事実を知らないニナは喜びに震えるのでした。

 さらにここで終わらず、マドは勝手に不動産を手放すことをやめてしまい、そのことをニナに言いません。ニナはそれを偶然知ってしまうのです。

 この二人はこの繰り返しだったんだろうなと思います。マドは自分が何を求めているか人に言えない。隠し、その場しのぎの小さな嘘を重ねてしまう。そのとき、ニナには時間とともに受け入れる以外の選択肢がありません。

 別れればいい。

 そんなわけありません。

 別れられないから嘘が重なっていくわけで、嘘から逃れるためには嘘だったと告白するか、嘘が発生する現場から離れるか、そのどちらかしかない。もしかしたら、ローマへ引っ越そう、ほんとうにふたりだけになろうと彼女たちが約束しあったのは、そんな経緯の積み重ねもあったのかもしれません。もう嘘をつかなくて済むところへ、ほんとうにふたりだけの暮らしのために。

 マドにはその場しのぎの嘘という欠点がある一方、ニナはニナで、勝手な人です。マドに相談せず、マドの部屋にあった例の時計を売ってしまう。売って、そのお金でローマに部屋を探しがてら、旅行に行こうと言います。その時計はマドの部屋にあって、長くマドを苦しめ、マドが嫌ってきた時計ではありますが、現状ではマドだけのものではなく、息子や娘、孫のものでもあります。上機嫌でお金を数えるニナの「時計を売った」という言葉にマドはハッとして、時計があったはずの空間に目をやります。時計がない。息子が愛着をもっているあの時計が。それでも、マドはニナに何も言えないのです。ただ黙っているだけ。こんな風に、ニナの勝手な行動にマドは振り回され、マドの小さな嘘にニナがかっとする、そんな繰り返しを含んで、二人は長いこと一緒に生きてきたのです。

 ここまでは素晴らしいのですが、中盤、罰かなにかのように、マドが病気で倒れ、彼女から言葉が奪われると、映画の緊張感が緩んでしまったように感じました。そこまではハードな事実の積み重ねがあって、私には見えない暗闇に月光が当たって、たまたま通りがかって覗き見ているような気持ちでいたのですが、急にそこでドラマの水準が変わってしまい、とまどいました。

 でも、そこからニナがマドを奪い返すため、ほぼ犯罪の手法を重ねて、暴れに暴れて奪還劇と逃走劇を繰り広げた果てに見えたのは、他ならない、固有のニナとマドであったところにこの映画の強靱さを感じました。「高齢の女性ふたり」ではなく、観客の前でその視線をものともせず、ひとりのニナとひとりのマドとして立っていました。レズビアンで、ここまで生き抜いてきて、さんざん傷ついてきて、罪も犯し、罰を受けもしたニナとマドの前で、何が言えるでしょうか。

 マドの娘が「わからない」と発しましたが、それで思い出したのは映画『愛、アムール』でした。病を得てしまった妻の介護を自分でやろうとする高齢の夫が迷い込んでしまった袋小路、そこで起こった悲劇。それらがすべて終わった後で夫妻の娘が現場であったアパートの部屋をゆっくりと無言で歩く姿を今でも時々思い出します。

 「ふたつの部屋、ふたりの暮らし」では短いシーンながら、マドの娘と息子が登場します。彼女と彼は精一杯母を思いやっていますが、同時に、見ていて「子どもでも、こんなにもマドのことがわからないのか」と思うやりとりが重なります。特に娘は父が母を虐待していたと語りながら、それでも母にとって父は最高の恋人だったと言います。そんなはずはないのに、と見ながら思いますが、私にももちろん、マドとニナの心に触れることはできません。通りがかっただけなので。ただ通りがかっただけですが、彼女たちの来し方の重みがずっしりと体内に残っています。