プール雨

幽霊について

今週はぼーっとしてた

 毎月恒例、気分が沈むサイクルにあたって、なるべく自分の気持ちを逆なでしないようにそうっと暮らしていました。洗濯物を干しながらじっとタオルを見て「よし、今何も考えていない、だいじょうぶ」と確認したり、無目的にカレンダー上の素数を眺めたり、読んでいる本をあえて数頁遡ったり。

 大体月に一度「いなくなりたい」と思ってしまう身心のサイクルの中で生きてきて、「よくもまあ……」としみじみします。夫は「いなくなりたい」と思った経験がないとかで、私が「しにたい」と思ってしまうことを一大事と捉えていて「そういうことは相談してほしいのよ? 二人の問題なのだから」と言ってくれます。そう言ってくれるだけでほっとします。

 とりあえず、最低でもワンシーズンに一回、頻繁なときは月に一度その波が来ることはわかっているので、「あっ、憂鬱だな」というときはカレンダーを見るようにしています。

to-ti.in

 『半分姉弟』の第 2 話を拝読しました。これから読む方もいらっしゃるので、ちょっとぼかして書きますけど、お母さんの国籍が中国、お父さんの国籍が日本で、本人は日本で生まれ育ったという方が主人公で、彼女はずっと「ハーフ」って言葉に傷ついていて、どこにも帰属意識がもてずにいます。その彼女が「(かぎかっこ)」つきの「ハーフ」という言葉を声に出すまでの話で、ぜひお読みいただきたいと思います。

 私は両親ともに国籍が一致していて、親同士でまたは自分と親とで母語がちがうといった問題の中にはいなかったので、当事者の方が聞かれたら胸を痛めるかもしれないんですが、この「ハーフ」という言葉が嫌いで、できれば使われなくなっていってほしい、どうしても使用しなければならない文脈では「いわゆる」などを前につけてほしい、最低でも「(かぎかっこ)」つきにしてほしいと願ってきました*1

 「ハーフ」って、「半分日本人」って意味ですよね。「半分日本人」とか「親の片方が日本人」とかそういう意味で、そこには「完全な日本人ではない」という意味が含まれていないか、いつも気になっています。

shiruto.jp

 この記事でも『半分姉弟』でも、日本に生まれて日本で育って学んで働いているにもかかわらず、彼ら彼女らに日常的に日本社会が浴びせている様々な差別表現が指摘されています。

 というか、私は自分が大人になったころには、「あ、ハーフなの? だから○○なんだね」、「日本語うまいね」、「日本人よりも日本人らしいですね」といったものいいや、初対面の人にいきなり国籍を訪ねるような蛮行や、「ガイジン」という野蛮な言葉は使われなくなっているだろうと思っていました。

 でもそういうことって、一朝一夕に、直線的には進まないんですよね。特に当事者だけが抵抗を示しているようなうちは、マジョリティ側から押し戻され、勘違いだとか神経質だとか、それこそ「ハーフだから」でなかったことにされてしまう。

 ところで、今週は高橋幸宏の CD が発売されたので、それを聞いていました。

 やっぱりかっこいいなあと思います。

 それで自分にとってはこの、立教中・高から武蔵美に行って、三笠ホテルに縁が深く、今は軽井沢に居を構える全然世界の違う人の音楽が血肉になってしまっていることを自覚しました。

 世界がせめて高橋幸宏の歌のようであったらなあと思います。

 ゴージャスで、リッチで、臆面もなくすてきなものがたくさん引用されていて、甘ったるい。

 せめて現実もこのくらいだったらなあ。

 以前、pupa のライブで "Creaks" という曲をやる前に、高橋幸宏はこんなことを言っていました。

この曲を作ったときは……怒っていたのかなあ?

 ……でも、優しくも、ありたいな。

Creaks

Creaks

  • pupa
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 この、高橋幸宏の「優しく」が出てくる度、私は喉の奥がひゅっとなるのでした。

 私は優しくできないので。優しくはできなくて、あらゆる言葉にひっかかってしまう。「純粋な日本人男性」にひっかかるし、当然「ガイジン」にひっかかる。それにひっかかるから「ガイブン」にもひっかかる。「ガイブン」という言葉が踊る書評に対しては話半分になってしまう。

 一事が万事で、どれもこれも受け入れたくない。

 日本は不平等な階級社会だと思う。資本主義は強者の欲望を肯定するから強く、勝者が「外部」を食い尽くすまで続く、そして簡単には降りられないシステムだと思う。そこにはカルトと暴力が宿る。

 そういうクソクソした世界の入り口で高橋幸宏の音楽は抵抗の仕方と受け入れ方を両方示していて、若かった私はその間で揺れ動いていました。

 その両方を受けとめたいと思って来たけど、私は結局、片方しか受けとめられないようです。高橋幸宏のテーマである(と私が勝手に決めている)勤勉であること、創造的であること、享楽的であることの、それぞれ半分ずつくらいしか自分は受けとめていない。

 残りを受け入れるヒントは、『半分姉弟』の第 2 話ラストにあります。

 私もできれば「優しく」ありたかったです。

*1:当事者の方が聞かれたら……というのは、ずっと「ハーフ」という言葉と闘ってきた人なら、あるいは「ガイジン」という言葉と闘ってきた人なら、それらの言葉が仮に消えるという事態があったとしたら、闘ってきた現実と月日がまるごと消えるような気持ちになるかもしれないと考えるからです。