プール雨

幽霊について

ドラマ『風よあらしよ』を見ました

 伊藤野枝のドラマ『風よあらしよ』、楽しみにしていたのですが、展開がはやすぎてついていけませんでした。わずか三話に対してエピソードを詰め込みすぎで、慌ただしかったです。たとえば二話で、野枝が「青鞜」を引き継いで奮闘するもむなしく結局廃刊になるまでの経緯に 15 分もかかっていなかったのではないでしょうか。見ながら「シークエンス」とか「区切り」または「切り貼り」という言葉が浮かんでしまうような細切れの構成が気になりました。初回で野枝は「青鞜」の新人として講演をし、それを大杉栄が聞いているのですが、あの講演に至るまでに野枝のなかで起こった言葉のドラマが明確でなく、ただ、俳優吉高由里子の存在感だけで引っ張っていると感じました。吉高由里子は確信をもって演じているので、彼女の姿や声だけを追っているとそれなりに見続けることができ、もしかしたらそのこと自体はすばらしいのかもしれませんが、ドラマとしておもしろいかというとどうかなというところです。辻潤大杉栄伊藤野枝も思想家なので、それぞれに言葉のドラマを抱えていたはずで、それぞれに、それぞれの「これだ」という言葉に出会っていくところが見られたらなあと期待していました。特に辻潤は複雑な表現をする人なので、ドラマではどうするんだろうと思っていましたが、やっぱり物足りない描写が続きました。それを俳優稲垣吾郎の説得力で何とかもたせていました。

 第三話は冒頭で伊藤野枝が「同志・大杉栄」を再発見し、その後思想家として成熟していくが、社会情勢は悪化の一途を……というまとまりがあって、三話中でいちばんおもしろかったです。でも、「史実を知っている人が、やはり史実を知っている人に向かって語っている」という感触が最後まで続きました。関東大震災で生じた恐怖が、日頃差別対象にしている「朝鮮人」に対する恐怖に転化し、井戸に云々というデマが生まれます。そして、妄想によって生じた、実際にはありもしない「朝鮮人による暴動」という「結果」の「原因」を「社会主義者の意図」に求めるという、倒錯した因果律が構成されるや、その因果律は生け贄を要求する。これは日々、私たちが経験していることと重なることでもあり、わかっている人がわかっている人に向けて語る分には『風よあらしよ』のテンポで十分かもしれないけれど、多くの人がラストの大杉栄伊藤野枝の位置に立てるように構成、演出されていたかと考えると、頼りないものがありました。

 俳優のみなさんはよかったです。脚本にない部分のこともすべてわかった上でやっているという感じがしました。俳優さん達の努力と実力で引っ張ったドラマでした。

 最低でも半年、できれば一年かけてやってほしかったです。

 とはいえ、現況下の NHK で放映されるドラマに伊藤野枝をもってくるには間違いなく大変な力業を要したはずで、その点は絶対的に賞賛したいと思います。

 ところで先日来、久しぶりに佐々木倫子動物のお医者さん』を読んでいるのですが、作品として充実しているなあとあらためて感じ入っています。作家、佐々木倫子とマネージャー、妹、取材先のみなさん以外の編集・出版にかかわる人たちは完全に黒子役に徹しているのですが、一話わずか一五頁のうちに様々な工夫がこらされていて、そうした、いろんな人の手がかかった豪華さを感じます。

 そういう豪華さが『風よあらしよ』にもあったらなと思います。俳優と衣装は充実していても、たとえばいかにもセットらしく見えてしまう照明に、たとえばいかにも「時間が足りない」と苦慮した跡の残る脚本に逃れようのない貧しさがあって、ほんとうに予算のすべてが現場にまわっていたのかとまで疑ってかかってしまい、勝手に寂しい思いをしています。