プール雨

幽霊について

私は日記を読むのが好き

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 はてなで「はてなブログの日記本」に掲載する日記を募集中です。おもしろそうなのでみなさま、どうぞふるってご参加ください。

 私は自分の日記を掘ってみましたが、条件に合う記事が見つかりません。

 日記さん、最近どうしてますか?

 私は最近茨木のり子の日記に「柳田国雄の 民族学事典どうしてもほしい(原文ママ)」とあったのを読み、久しぶりに情熱というものをひしひし感じました。

 自分の日記帳をめくってみるとメモばかりで、日記と呼べる記述というと「自分が食べているグラノーラの商品名が『アングラノーラ』で、BGMにミッキー・カーチス&サムライの『侍』が指定してあることに気付いた」みたいな感じです。日記さん、これは「日記」ですよね。誰も見ない日記帳ならではのテキトー文体です。ブログだとどうしても読者の顔が見えているので、日記さん以外の誰かに話しかけたり、釈明におわれたりしていて、ザ・日記的文体を保つがの難しいです。

 日記さん、さっきから日記さんに話しかけているのです。

 聞こえていますか?

 そうすることによって日記の体裁を呼び込めるのではないかと思って。

 今、本棚をちろっと見回してみて、「○○日記」というタイトルの本を三冊、手に取ってみました。山本利達校注『紫式部日記紫式部集』、穂村弘『本当はちがうんだ日記』、恩田陸『酩酊混乱紀行『恐怖の報酬』日記』の三冊。いずれおとらぬ名著です。

 来年か再来年かその次くらいの大河が紫式部だそうですね。しかも吉高由里子がやるとか。私は大河を見るように生活サイクルができていないので、ふだんは人の話を聞いているだけなのですが、吉高由里子紫式部を演じるとなればさすがに見るのではないかと思われる。注目しているのは里に下がっていたときに同僚の女房と交わした「うきねせし水の上のみ恋しくて鴨の上毛にさえぞおとらぬ(御前であなたと仮寝したことばかりが恋しくて、里での独り寝の寒さは鴨の上毛の冷たさにも劣りません……紫式部)」「うち払ふ友なきころのねざめにはつがいひし鴛鴦(をし)ぞよはに恋しき(上毛の霜を払い合う友のいない寝覚にはいつも一緒だったあなたが恋しいのですよ……大納言の君)」のやりとりに見られるような女房同士の親密さがどう描かれるかというところです。

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 ところで日記さん、『本当はちがうんだ日記』は「私はひとりの死を死ぬしかない自分の運命が怖いのだ」と言うんですけど、どう思いますか? 「一度きりであることの逃れられない軽さが重い」的なことだと思うんですけど、そんなことを言われてどう思いますか? ほかにも、こんなことを言っています。

  • 誰もみていないときにもうつくしい。そんなひとに憧れる。(p.43)*1
  • そもそもリセットなんて幻想なんだ、とも云われる。(中略)そんなことない、と私は心のなかで反論する。私にもできることはある。例えばスターバックスのカウンター席でカプチーノ(無脂肪ミルク熱め)を啜りながら、『不思議の国のアリス』を音読するとか。(p.48)
  • ぼくのハチミツパンは、最低から数えた方がはやいかもしれないな。(p.59)
  • 今日もまた、ふわふわとハンガーのところに漂っていき、上着のポケットに手を入れながら、私は忍者のように慎重に辺りの気配を窺う。(p.65)

 憧れに近づけない自分を、ああ、すてきじゃない、エレガントじゃないとわびしく思い、すてきなじゃい方、すてきじゃない方へとぱちんぱちんと運命が決まっていくことを恐怖しつつも、しかし適応できてしまうこともまた怖い穂村弘のエッセイを読んでいると時々、そんなものであるにもかかわらず、ふっと輝きを放っているように見えるときがある。言葉が。本人ではなく。

 本人はまあ、元々すてきな人なんじゃないでしょうか。

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 恩田陸『酩酊混乱紀行『恐怖の報酬』日記』は名著過ぎて、また読みふけってしまうところでした。著者がイギリスに取材旅行に出かけることになってしまうところから始まるこの日記。新国立劇場のビュッフェでお酒を飲みながら「小さな布張りのノートに、黒のサインペンで」「恐怖の発端」を書いている。この人は飛行機がダメなのです。ダメなのに、「そんなことが実現するはずはあるまい」と思いながら「次の取材はイギリスとアイルランドに行きたいねー」などと言っていたそれがうっかり実現してしまい、その恐怖を語っているうちに 61 頁まで至ってしまうのです。262 頁しかないのに、飛行機に乗ることになり、機内での恐怖を緩和するための本を選び、空港に行きうどんを食べ、ミステリについて考えて気をそらしているうちにもはやまったなしの状況になるのが 61 頁なのでした。

つくづく、恐怖というのは、人間にいろいろなことを考えさせるものである。

 担当編集者に引きずられて機内へ押し込められ、そしてその飛行機が飛び立つまでに 8 頁もかけてああでもないこうでもないと理性を装うくだりは圧巻です。

 シャープな名文が、飛行機を恐怖する一人の作家のサインペンからべろべろと流れ出る。

 すごい。

 何回読んでもすごい。

 いや、読んでいる場合ではないのです。

 私は今日、「日記」ってどういうものだろう、どうして自分はそれがはっきり言えないのに「日記を読むのが好き」と断言し、「日記っぽい文章」と「日記っぽくない文章」を分けることができるのだろう、そんなことを考えるつもりでした。

 だがしかし、本棚でこっち側をむいていた「○○日記」チームにより、遠くまでつれてこられてしまいました。

 この話はまた今度。

📚 おわり 📚

*1:頁数は2005年の集英社版より。