プール雨

幽霊について

西村賢太『雨滴は続く』〜愚痴がうまいとはこういうことか〜

 

 北町貫多は中学卒業後に出奔して以来、日雇いで日々をしのぎつつ家賃を踏み倒したり、母親からなけなしの現金を奪い取ったり、せっかく人生を共にしてくれる女性が現れたのに彼女の大事にしているぬいぐるみにひどいことをしたり、人から褒められることの全くない人生を歩んできた。そんな彼の前に舞い降りた天使、藤澤清造藤澤清造の歿後弟子を名乗り全集刊行を目指す貫多は、小説家への道がひらけつつあることを清造の墓前に報告するのだった。

 北町貫多シリーズ最後の小説『雨滴は続く』は、彼が作家になっていく過程を追ったものです。もちろんその過程でも二人の女性に恋心を抱き、時にどちらかに傾き、また別の時にはもう一方の女性に心を移し、そうこうしているうちにどちらの女性とも疎遠になってしまうのでした。その反復運動を、世話になっている古書店の店主、新川に愚痴ったところ、「まあ、たぶん今の話もあくまでもお前さん側の言い分だから、実際のところはもっと相手を傷つけてるんだろうな。その女性の、二人ともをな」と言われてしまいます。

「…(略)…、ヘンに見透かしたようなことは言わんで下さいな。不愉快だから」

「不愉快なのは、こっちの方だよ。仕入れで疲れて戻ってきたところに飛び込んできて、そんな益体もない話を延々と聞かされる俺の身にもなってみろ」

「おや? この野郎。その口ぶりは、やっぱりぼくに何んか含むところを持ってる感じじゃねえですか」

「なに言ってんだよ。なんにも含むところなんか持っていないよ。ただ忙しいときに、これからまだやることも残っているときにだな、そういった女性を侮辱するような話を聞かされるのはそれこそ不愉快だと言ってるんだよ」(西村賢太『雨滴は続く』p.456 より)

 新川さんは貫多の失恋話を聞かされて、貫多側に非があるという態度をくずしません。それはこのシリーズを読む読者にも共通する態度です。ことがうまくはこんで貫多がうきうきとしているときは「ああ、この状態が永続するわけはない」と、彼の口から暴言がいつ出るかいつ出るかとはらはらし、実際にそうなると「あーあーあー! あー貫多〜〜!!」とじたばたする。

 そして、読み終えると、貫多に仕事を世話した人、上司だった人、同僚、恋人、大家さんに至るまで全ての人について「いい人だったよなあ」と思い、「それを貫多、お前というヤツは……」とうなだれる。西村賢太の小説を読むとは基本的にこの繰り返しで、ひたすら彼にかかわった人びとに同情することになります。悪し様に罵られた女性達も、みんな「いい人だった」としか思えない。

 こんなにも「100%、お前が悪い」と思える主人公が、そしてそんなことを言われても彼が「なにを!」と激高するところしか見えない私小説が存在していることにしみじみ、感じ入ってしまいます。

 自分の来し方をああだこうだああだこうだああだこうだと語っているときに、再帰性がみじんも発生しないという、現代人としてはたいへんに特異な文体。過ちを次から次へと語りながら、反省も自己嫌悪もしないということが、およそニンゲンの言葉にありえたのかと驚く。しかも、口癖は「根が……」。「根が悪い意味でだけのオッチョコチョイで、肉慾のみならず名誉慾にも飢(かつ)えきっている貫多(同p.115)」のような表現が一頁に一回、ヘタすると二回出てくる。

  • 根が至っての結果主義にできているところの貫多 (同 p.340)
  • 貫多と云う男は根が純朴で腰の低い版面、恐ろしく自己顕示慾の強い質にもできている。 (同 p.341)
  • 貫多と云う男は根が目的を成し遂げる為ならば手段を選ばぬ質にもできている。 (同 p.342)
  • 貫多は根がわりと小器用な質にもできている。 (同 p.343)
  • 根が何事につけ細か過ぎる質にできている彼 (同 p.344)

 「根がどこまでも中卒にできてる彼(p.401)」というのもあり、完全に意味不明である。

 根が、根が、根がと立て続けに言われても、「はい、はい」としか思えない。「根が」の後に続く文言には意外性も驚きもなく、根も葉も茎もなくすべてが表に現れているので、この人を理解するにあたって特段何の負荷も圧も感じない。

 こんなにも、主人公を理解する上で面倒な手続きのいらないあけっぴろげな私小説がかつて存在したでしょうか。

 とにかくこの貫多という主人公は、しょげかえっていることや元気のないことはあるのですが、反省や自己嫌悪など、「自己をみつめる」的手続きがなく、どんどんどんどん進んでいくのです。

 長々と来し方を聞かされたあげく、「貫多が悪い、全部悪い。あ〜あ〜あ〜」と思うのは稀有な体験でした。そして書き手について言えば、読者を楽しませようと尽力したという点に関してだけは疑いないわけで、もういないと思うと寂しいです。

 貫多を「あ〜あ〜あ〜」とじたばたしながら見続けた約十五年。新川さんはじめ、彼のまわりにいた人たちはみんないい人です。「いい人」は言い過ぎでも、少なくともみんなまじめに貫多に相対していたと思います。

 さようなら、北町貫多。

 さようなら、西村賢太