プール雨

幽霊について

日高屋でハードボイルド

 吉本浩二という漫画家をご存じですか。『ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜』で話題になり、その後も話題作を堅実に重ねている人です。私は特に、聴覚障害を粘り強く取材した『淋しいのはアンタだけじゃない』に感銘を受けました。聞こえづらい、聞こえないという言葉では到底捉えきれない難聴の実態が描かれていて、描きながら悩む作家の姿も印象的で読み応えありました。

 ちょうどこれを読んでいたとき、佐村河内守に取材した映画『FAKE』を見ました。読んでいたからこそ、気づきえたことが二つありました。一つは佐村河内守はおそらく実際に難聴の問題を抱えているであろうこと、なのに適切な医療に長らく接続できていないことです。『淋しいのはアンタだけじゃない』を読んでいなければぴんとこなかったと思います。映画自体はその難聴の実態に迫ろうとしたものではありませんが、長年、相手の言うことがすべて聞こえているわけではない、そのため、自分の言っていることが伝わっているかどうか確信がもてないという状況で、非常に限られたコミュニケーションを重ねてきてしまった人の「癖」のようなものが映し出されていました。もう一つは、そのことを制作する側があまり理解せずに撮影に臨んでいるであろうことです。「信じる」という言葉が映画中に出てきますが、「信じる/信じない」の問題以前に理解するための手続きが踏まれていないと感じました。

 そのことが浮き彫りになるほど、『淋しいのはアンタだけじゃない』で吉本浩二は理解するためにあらゆる方策を尽くし、苦しみ、わらかないことはわからないといい、しかしそこで諦めていないのです。

 名著『淋しいのはアンタだけなじゃない』、おすすめです!

 そして、今日書きたいのは実はこのことではないというのにここまで書いてしまい、たいへん恐縮です。

 今話題の吉本浩二『こづかい万歳』は日経が中心になってキャンペーンを組んでいる「あえて、持たない暮らし、月 5 万円の収入でもやっていける」的な、貧しさを問題視しないための「楽しさ探し」などとは一線を画すものですので、そこはご安心いただきたいと思います。

 『こづかい万歳』では朝から晩まで、または晩から朝まで働いているのに収入が増えず月に自由に使えるお金が僅かしかない人に、やはり同じ境遇の吉本浩二が取材したものです。彼はそこで、「まるで悪いことをするかのようにやりくりする」という謎の表現手法を取ります。「ぐっふっふっふ……!」とさも悪党が裏街道で何かをかすめ取るときのような絵面でかれらは毎月のやりくりを吐露するのでした。ナニワ金融道的な、喪黒福造的な絵面なのに、言っていることは「いつどこでどのようなおかしを入手し、食べるか」「どのようなタイミングで飲むと缶酎ハイが最高の味になるか」といったことで、すっごくおもしろい。子細に読めば「そもそも、この人達の賃金を上げないことによって人類は何らかの負債を積み上げているのではないか」という恐怖に震え上がります。

 怪著『こづかい万歳』おすすめです!

 そして、ここからが本題なので大変に申し訳ないのですが、ここからがほんとうの本題です。私は今、この『こづかい万歳』に出てくる「吉本の妻」に夢中なのです。彼女のエッセイが収録されたのは同書 3 巻のことでした。タイトルは「私と日高屋」。書き出しは「私にとってのオアシス、日高屋について綴ろうと思う」。この堂々たるたたずまい。期待が高まります。

 日々、家族が残したおかずを転用したり、食材の残りを活用したりして、せっせと晩酌にいそしんでいる私だが、日高屋での外飲みは格別である。子供を夫に預けて、個となる瞬間、私はつぶやいている。「さてさて……さてと」。

 かっこいい……!

 これから仕事にとりかかる殺し屋のような文体で日高屋でのひとり飲みに臨むその姿。実際見ているわけではないが、ほれぼれする。

 この「さてさて……さてと」は今、私内で空前の大ブーム。「さてさて……さてと」と言えばたとえそれが昼下がりの午後ロータイムだろうと、夜のコロンボタイムだろうと否応なしに背筋は伸び、腹筋に力が入り、それでいて肩から力は抜け、理想の仕事姿勢ができあがる。理想の仕事姿勢でベビースターラーメンとカフェオレを用意して午後ロー見るとき、私は真剣だ。ばかにしないでもらいたい。私も、午後ローも。

 と、そんなわけですっかりハードボイルドに体が慣れ親しんだ日曜日、寒風吹きすさぶなか、我々は行ったのだった。もちろん、日高屋に。

さてさて……さてと。

 うっかりカメラのときめきモード🌟で撮影してしまったが気にしないでくれ。

 我々は実はこの前に寿司屋で寿司も食べている。が、その寿司屋の人間関係が悪く、フロア担当の一人だけが気働きさせられているところを目にしてほとほと疲れ、腹はふくれたが心は飢えていたのです。そんなわけで、

おつまみ三種

ギョーザ

半ラーメン

「今起きたばかりです」という体を装って日高屋でフルコースを決めました。自由にやりました。おいしかったです。おなかいっぱいです。でも後悔していません。

 時系列が行ったり来たりで申し訳ありませんが、ハードボイルドモードになると「おなかいっぱい」がリセットされるので、食べるつもりのないときは要注意です。でも、サイゼリヤ日高屋で自由になりたいときはハードボイルドが似合うと思います。

 以上です。いろいろすいませんでした。

城にもどり、郵便受けにあったおすしのちらしを見る人たち

🍻 おしまい 🍜