プール雨

幽霊について

「意味」の復権

名古屋市復元をめざす名古屋城木造天守バリアフリー化をめぐり、市が主催した3日の市民討論会の中で、エレベーター(EV)の設置を求める意見を述べた身体障害がある男性に対し、他の参加者から差別発言があった。 (朝日新聞 寺沢知海 2023年6月3日記事「障害者への差別発言相次ぐ 名古屋城復元めぐる市主催の討論会」より)

 内容がほんとうにひどいので、記事冒頭だけ引用しました。

 市主催の討論会で、参加者は抽選で決まったこと、そして差別発言の直後に参加者の間から差別発言に対して好意的な、賛意を示す反応があったことが、とても怖いと思いました。

 差別発言をした人も、差別発言に喝采を送った人も、そのことを問題視しないという構えを貫く市長も名古屋市も、自分の軽薄さから地獄を生み出し、地獄を生きている。

 それで一生を終えるつもりなんだろうか。

 考えてみれば、支配の象徴、支配者の栄花の象徴である天守を復元したいと望み、そのために署名を捏造して対立する政治家を貶めようとした政治家を支持し続けるという営み自体、差別構造のなかにがっちりはまっているわけで、この話題に賛意を示すところからすでに差別の入れ子構造の一部になることを意味しているんだなと思いました。

 天守好きの人というのはいていいと思いますし、専門的に天守天守のある町について学びつづけ、考え続けるなら、そういう人がいるというだけでも社会の豊かさを示すと思います。

 でも、そのときに「人が人を支配すること」や「力関係の差を維持し続けること」など、負の側面については不問に付し、今それがこの社会の中にどういう意味をもつかということについて語っていけないのなら、営みとしてはどんどん軽薄に、そして暴力的になっていくのでしょう。

 Twitter を利用していると、差別問題のうち、すぐに飛びかかられる特定のトピックがいくつかあることがわかります。若年女性支援や、トランスジェンダー共同親権問題(=DV問題)などがそうで、それらについて書き込むとあっという間に攻撃的で無礼なリプライがつきます。公共広告と萌え絵の問題なんかもそうです。数年前だと伊藤史織詩織さん*1や石川優美さんなどの固有名詞がそうでした。今ならおそらく……と思い浮かぶお名前もいくつかあります。そのひとつに「バリアフリー」もあります。特に障碍当事者からの発言や、その発言への賛意を示す書き込みに対してはひどいリプライがすごい速度でつきます(わりとカルト問題なんかはそうでもないというのが興味深いところです)(そうしたリプライは量と文体からして、カルトの動員も想定されるものなのですが)。それらの速度に私はまず、軽薄さを感じます。軽薄、軽率、勢いというようなもの。テンポ良く差別表現を重ねることに対する妙なこだわりと軽さです。

 先日、6 月 4 日、トランスジェンダーだと公表している仲岡しゅん弁護士に殺害予告のメッセージが届いているという報道がありました。

 からかいや差別表現の先にはヘイトクライムやジェノサイドが待っているということが実感できる事件でした。

 トランスジェンダーの方々はずっと社会の中にいて、様々な苦労と沈黙を強いられてきて、それを変えていこうという気づきが社会の中で少しずつ運動に繫がってきたことの中には、すでに長い歴史があります。

 LGBTQ から T や Q を引き離して差別対象として「人種化」しようという動きはその歴史と現実を否認するものです。

 そして、これら否認主義的で作為的な運動に巻き込まれて、軽薄にからかいや差別表現を表明する行為が日々見られます。否認主義者の発言はわかりやすいので、賛意を示しやすいということもあるでしょう。長い歴史と重い現実よりも、妄想の方がわかりやすいのは当然です。そうした言動に潜む軽薄さが怖いです。「これくらいはどうってことない」という軽い気持ちで行っていること、そのからかいが笑いとともに受け入れられると期待していることなどがありありと見え、また、それら発言がコミュニティの中で歓迎され承認されているのを見るとき、できれば「これくらいはどうってことない」の段階で引き返してほしいと願っています。

 まあ、その一線を越えるとなかなか戻れないのは想像できます。一度やってしまったら、その「やってしまった」を正当化したくなるのは人情です。でも、間違いを認めないと最終的に食い尽くされるのは自分の人生なので。

 わからないなら沈黙して、その間に学べばいいわけで、なにもそのからかいに急いで参加してヘイトのコミュニティを支えてやる必要はないでしょう。

 週末は、春日武彦『無意味とスカシカシパン』を読んでいました。

 「人生に意味はあるの」といった問いかけに用いられる「意味」という言葉は現状、ほとんど「価値」という言葉と同じだと思います。なにかを「意味ないよね」と言い捨てているとき、「価値がない」と言っているわけで、そのとき「意味」という言葉の価値は地に落ちている。「効率」や「費用対効果」などとともに用いられる「意味」はあわれです。人間が「これ、意味ないよね」と言っていろんなものを捨てているうちに、「意味」という言葉はすっかり貧しくなりました。

 「意味」が復権するには「無意味」とともに語られる必要がなるのだな、と春日武彦の文章を読んでいると思います。世界は読まれるのを待っている。そのことを実感するには「無意味」から始めるのがひとつの大事な手続きです。

 「無意味」と「意味」の間でじっと待っている。読んだんり、考えたり、調べたり、学んだり、傍から見たらただじっとしているように見えるそうした営みによって、意味は見出され、発見されて、輝いていく。

 軽薄さや速さや冷たさはそうした豊かさから私たちを遠ざけてしまう。軽率に「よくわからないけど」などと語り初めて空白を埋めてしまう前に、一旦しゃがんで、じっと考える、学ぶという姿勢が大事なんだと思わされる事件が毎日毎日起こっています。

 

🍀 おわり 🍀

*1:伊藤詩織さんのお名前を間違えて、あとで訂正しました。