プール雨

幽霊について

映画館を出たあとに

読書にはげむざべす

 こないだ『ぼくのお日さま』と『ヒットマン』を立て続けに見て、前者は「いい映画になりそこねた映画」で、後者は「いい映画になるつもりがない映画」だと感じました。これは私の体験について言ったものとしては、かなり的を射た表現です。映画は「いい映画」じゃなくても全然、かまわないのですが、私はどうも、毎度毎度「いい映画」を期待して、「いい映画かどうか」を頭の隅では考えてきたようなのです。そこで、私の考える「いい映画」ってどういうのなんだろな、っていうのをぜひとも考えなくちゃいけません。

 映画で大満足して「ようし、走っておうち帰ろう!!」とか、そうした過激な行動に出ているときに自分がどう感じているか。目を閉じて、じっくりとそれらの体験を思い出していると……完全にいい気分に……豪快な、どきどきとした気持ちになります。そういうときは大体、「路行く人びとの顔が重く見える」という体験をしています。映画館を出る過程で、出たあとで、家に帰る道すがら、人びとの顔が重く迫ってくる。個々の尊厳が物理的に目に見えている状態になるのです。いつも見えていないというわけではないのですが、それが物理に表れるのがおもしろい体験です。これが自分の「いい映画」体験です。映画の中で登場人物たちがほんとうにそこで生きているように見えて、映画が終わったあとも生きていくだろうとリアルに感じたときに連続して起こる現象です。

 『ぼくのお日さま』はある登場人物に対して映画全体が冷たいというか、この子のことをこれからも生きていく人間だと思ってないんじゃないかなと感じるところがあり、また、そこここにほころびがあり、どこか一箇所くずすとがらがらっと全体がくずれてしまいそうな、あやういところがありました。『ヒットマン』は一人一人の人格や人権とは遠いところで作られたお話で、あくまでも主人公ひとりのためにある物語です。そして、現実に起きたことは、それよりずっとすばらしいことだったと後で知るという、体験が二段構えになっている映画です。どっちもおもしろかったです。

 「いい映画」じゃなくったって、別にいいのです。映画であれば。映画を見るのはどんな映画であっても、楽しい体験です。ある映画が自分にとって「いい映画」じゃなくても、だれかが同じ劇場で「いい映画」体験をしていて、その話を聞けるということもあるし、逆もある。映画は一枚岩でできていないので、「いい映画」じゃなければひどい映画かというとそういうわけじゃないですし。あとまあ、「ひどい映画」の報告をしあうのも、楽しいことですし。

 ただ、私には私の「いい映画」観というものがあり、それは多分、一人一人別々にあるんだろうなあということが実感できるできごとでした。

図書館におでかけするざべす

その道すがらに生えている、かぼちゃのつる

🎦 おしまい 🎥