雨降り

幽霊について

2018 年上半期を一ヶ月かけて振り返る(4)國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』

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 昨年来、話題の本です。今年になってゆっくり読みました。

以下、非常に漠然とではありますが、『中動態の世界』を読みながら考えたことのメモです。引用はすべて同書より。

 

人は、何らかの理由から疑問を感じているのに同意してしまう場合がある。つまり、暴力によって「あらゆる可能性を閉ざ」されているわけではないが、かといって自発的でもない、にもかかわらず同意してしまうことがありうる(ハラスメントにおいてはこうしたケースが問題になる)。

間違っているとわかっているのにはっきりとノーと言えず、従ってしまう、そういうことは誰の身にも起こりえます。

映画『マッドマックス』ではこんなシーンがあります。

マックスの同僚、グースの車がトッカッターに襲撃されます。横転して、車から出てこられないグース、その車からはガソリンがこぼれだしていて、それに火をつけろと、トッカーターがジョニーに命令します。ジョニーは何もそこまでする必要はないと嫌がり、怖がりますが、結局は脅されて、半ば事故的に火をつけてしまいます。

仮にこれが正当な手続きを踏んで取り調べに至ったとして、トッカーターは「やったのはジョニーだ」と言い逃れするだろうことは目に見えています。ジョニーは二重三重にこの殺人事件にとらわれることになります。まずは自分が直接手を下してしまった、加害者だということ。次に、脅されて、命令されてそうした、被害者だということ、さらに、そうした命令に今後より一層背けないだろうこと、そうした種類の違う苦しみがすっぽりとトッカーターとジョニーとグースを覆っていて、ジョニーは精算することも逃げ出すこともできないのです。

『マッドマックス』を持ち出すまでもなく、こうしたことは日常的に見ることができます。不正、偽装、改竄といった文字が一度も目に入らず一日を送ることは、もはや不可能な社会に私は生きています。具体的に書類を改竄した人はたったひとりでも、その人が改竄に至る構造の中には大勢の人がいて、そのどこかには能動的に行為をしたわけではないけれど、違法なことに部下たちが手を染めることを黙認あるいは脅して命令した人がいて、実際に行為を遂行したわけではないというその一点で責任を取らずに済ませているのです(そしてそのことが世界中、誰の目にも明らかだというところも、すごい事態です)。

だけど何らかの意味で違法なことに手を染め、他の誰かの身心や財産などを傷つけているという事実は、それが暴力だと記述され対象化されない限り、ケリがつくことはなく、被害は重なり続けることでしょう。それを「違法行為」「暴力行為」と認めない以上、一度その主体になると、自分を正当化し続けなければならないし、どうしたって繰り返すことになります。

「強制ではないよ」という構えを持ったまま、相手に何かをさせて、その結果に自分は責任を負わないということになると、その人(あるいはその組織)はいつまでもいつまでも暴力構造の一部であり続けるわけで、現実問題そのようなものに巻き込まれたら被害者は「関係を絶つ」以外に選択肢がなく、「被害からの回復」は(一旦は)諦めさえしなければなりません。

 

しかし、強制ではないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している、そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常にあふれている。それが見えなくなっているのは、強制か自発かという対立で、すなわち能動か受動かという対立で物事を眺めているからである。

 

能動か受動かという対立で物事を眺めている限り、公文書改竄で自殺した職員はじめ各ハラスメントの被害者は「完全に受動であったか」「ほかに選択肢があったのではないか」「自分の意志がすこしもそこになかったのか」と言った問い詰め方をされてしまいます。別に背中に銃口を突きつけられて書類にサインをしたわけではないだろう、それなら自己責任だ、という具合に。

 

非自発的同意を行為から排除することは、単に行為の記述として不十分なだけではない。それは看過できない重大な帰結を招き寄せる。非自発的同意を行為の一類型として認めないならば、ある同意に関して、「同意したのだから自発的であったのだ」と見なされてしまう可能性が出てくる。

 

「非自発的同意」について、同意した以上は自発的なもので、そこからどのような被害があろうとも自己責任だという拙速な議論がまかり通っているうちは学校や職場でのいじめ、各種ハラスメント、家庭内暴力、そして組織的な偽装、公文書改竄問題を解決に導く補助線はみつからないでしょう。

たとえば DV に悩む妻が夫の命令で借金を重ねてしまい、それが返せなくなるような事態を考えてみます。夫は当然「お前が勝手にやったことだ」と言い、挙げ句の果てには「そもそもお前の金遣いが荒いから」と言う。

このとき、妻側にしてみると、夫の命令によってさせられたことだから受動的なことだったのだけど、背中に銃口を突きつけられてやったわけではなく、実際に借金をしたのは自分で(特に書面上は)、借金は能動的な行為だったことになってしまう。

だからこうした事態が進行し始めて最初のうちは、判で押したように DV 被害者は「自分が悪い」と言います。強制されたとはいえ、同意したのは自分である、ならば悪いのは自分だ、というわけです。

この、ほんとうは強制されているのに、自らしていると思わされているような一連の過程を、どう記述していくべきか。特に相手が反射的に嘘を言うような人物であった場合、語れば語るほど嘘が強固になってしまうという別の問題もあるわけで、この問題から自由な日本語人は一人もいないのではないかと思います。

こうした観点から、#Me Too #We Too の活動は日本語圏でも根付いてほしいし、広く展開していってほしいと考えています。ハラスメントには上記のような構造があって、なかなかクリアカットに、「違法です」で終了とはならず、訴えるまでに時間がかかり、訴えてからも二重三重の被害にさらされます。さらに難しいのは、一度ハラスメントを無言で耐えた個人、その人には何の罪もないのですが、その「耐えた人がいる」という実績により、後の世代に問題が持ち越されるという事態です。

ハラスメント問題に限らず、暴力の構造のただ中にいるとき、それを言葉にして、他人に助けを求めるのはなかなか難しいし、勇気も体力も必要です。そのときはとにかく生き延びることだけに集中して、後で、ケリをつけるために動くということはことの性質からありうることと思います。「私もそうだった」として、以前の自分をとりまく環境がきわめて暴力的だったとじっくり語っていくことは、それがどのような構造下で起こったことなのか明らかにできる点で、語ることそれ自体に価値があると考えます。

私には、困難なときに心を寄せてくれた友人たちがいて、それでやってこられたという実感があります。だからあらゆる困難に心を寄せたいと思っていますし、できることはしたいと考えています。とりわけ、この「する」のに「される」という複雑な暴力の振るわれ方をどう語って明らかにしていくかということに関しては、勉強して、考えて、表現していきたいと考えています。