プール雨

幽霊について

この話は君もよく知ってるよね、と彼は言う。

1/26、話題の「ソーシャル・ネットワーク」(2010 デヴィッド・フィンチャー) を観てきました。
tower.jp

 
おもしろかった。
裁判での証言を通じて、フェイスブックの立ち上げと展開、拡大が描かれて行く。まずそのスピード感と熱狂にぞくぞくする。
同時に、マーク・ザッカーバーグという人間の様々な像が立ち上がる。裁判での証言が元になっているので、場面毎に彼の見え方がまるで違う。上昇志向と劣等感、回転の速い思考とその思考に到底付いていかない、付いていこうという気すらない彼の言動、親友への絶対的な信頼、甘え、裏切り、冷徹な視線、だが……とどこに本音があるのかなかなか見えない。
例えば、ショーン・パーカーとの初めての会食のシーン。彼はマークとエドゥアルドが二人で立ち上げたフェイスブック(当時は"The FaceBook")が巨万の富を生むと直感している。運営資金を出資したエドゥアルドは広告をとってそろそろ利益を上げようと提案、奮闘していた時期で、マークは「広告はクールじゃない」と乗り気ではなかった。そこに割って入ったのがこのショーンで、今広告を下手に打ってフェイスブックの価値を下げるな、フェイスブックの価値をつり上げろと言う。
この「山師」ショーンの口にする文体は、エドゥアルドやマークとは全く違う。言葉で人をコントロールすることに長けた、言わば「詐欺師の文体」にマークはあっという間に酔い、エドゥアルドは警戒する。ショーンが話しはじめたときからマークは彼の言葉にうなずき、目を輝かせる。エドゥアルドは苛立つ。彼のこのときの直感は正しく、ショーンの登場により、フェイスブックエドゥアルドにコントロール不能なものに変容していく。
しかしこのシーンに違和感を覚える人も多いのではないか。
ショーンの惹句だらけで空疎な言葉、大げさな手振り身振りに、輝く瞳でうなずくマーク。
ほんとうに?
マークはほんとうにそんな仕草をそのときに見せたのだろうか。「言葉」に容易にうなずくような人間なのか、彼が?
いや、そうかもしれない。言葉を道具として扱い、会話を勝負の場と見なすマークは、そういった言葉に本質的に脆弱なのかもしれない。いやだがほんとうに?
はっきりしているのは、これはエドゥアルドの証言だということだ。ここでは、マークは彼にとって、親友ではなく、不安を増幅させる敵になりつつある。たった一人の親友であるはずのエドゥアルドの忠告は聞き入れず、初対面のショーンの言葉にあっさりうなずくマークに対する怒りが、この場面に充溢している。だから、マークがほんとうにそんな仕草を見せたかどうかはわからない。そこにあるのはエドゥアルドから見た、親友から敵になりつつあるマークの姿だからだ。
動物虐待の件を仕組んだのはマークなのか、コカインの件を仕組んだのはマークなのか。それだけではない。大きな融資をとりつけて祝うショーンたちの姿を窓の外から眺めていたとき、マークはどんな気持ちだったのか。なぜ、彼は窓の外から眺めるのか。ショーンたちとマークを隔てるものは何なのか。映像はまるでそれがエドゥアルドに対する友情だとでも言いたげだが、ほんとうに?
わからないことだらけだ。
なのに、胸にせまる。
人ごととは思えない。
最年少で億万長者になった天才の孤立と孤独を描いているはずなのに、この感情は味わったことがあるという気にさせる。味わったことなんてあるはずないのにだ。どうしても「知ってる」と思えてならない。
エリカに振られた腹いせに酒をあおりながらブログに罵詈雑言をしたためておいて、エドゥアルドに「エリカと別れたのか」と聞かれると、「なぜ知ってる」と驚く。ブログに書いたのは自分なのに。それほど混乱して酔っぱらって立ち上げたファイスマッシュがファイスブック創設のきっかけだった。そのとき、たったの19歳だったのだ。
120分たったとは思えなかった。あっという間だった。なのに家にもどると、口も開きたくないほど疲れていた。120分ずっと、苦く、何かが響いていた。