プール雨

幽霊について

物語を拒むということ

 ロバート・アルトマン映画に出てくる、あらゆるアクシデントの描かれ方が好きだ。
 事故や病気、怪我等について、「別に悲劇ではないですよ」とでも言いたげな淡々とした感じが開放的で、私にとっては理想の目線だ。
 病気や怪我を悲劇として扱うのは悪趣味だとすら思う。
 
 最後にアルトマン映画を劇場で見たのは『今宵、フィッツジェラルド劇場で(A Prairie Home Companion, 2006)』。
 遺作となりました。
 長年にわたって続いて来たラジオ番組の最後の収録が始まって終わるまでの話で、いくつかのアクシデントに見舞われながらもラジオショーは行われ、無事幕を閉じる。
 途中、仲間の一人が死んでしまうんだけど、番組では追悼の言葉を放送しない。「老人の死は悲劇ではない」という言葉とともに静かに受け入れられる彼の死と、30 年続いた番組の終了が重なる…というわけでもなく、ただ、老人は静かに死ぬ。
 トミー・リー・ジョーンズが、フィッツジェラルドも知らない、唐変木な大企業の重役としてショーを視察する。ここでその重役がショーの熱気にあてられて、ショー継続を社に打診する…といった「オチ」をどこかでうっすら期待してしまうんだけど、もちろん、そういうこともない。終わるものは終わる。
 ミラン・クンデラが言うように、すべては一回きりだという「軽さ」から逃れられない。時間は流れるし、物事は変化する。一歩先の未来は誰にとっても初めてのことなのだ。その通り道に怪我や病気や事故があってもそれは悲劇ではない。ただ避けられないというだけだ。
 アルトマンは最後の映画『今宵、フィッツジェラルド劇場で』で初めて、私たちに直接言葉を投げかけたのだと思う。「老人の死は悲劇ではない」というその言葉は彼にしては説明的すぎて、ファンにとっては蛇足だし悲しくすらある。でもそれは多分、アルトマンから私たちへの贈り物だったのだろう。

 私がDVDで持ってるアルトマン映画の一本に『バレエ・カンパニー(The Company, 2003)』がある。
 ジョフリー・バレエ・オブ・シカゴのダンサーたちの日常を描いた映画で、ダンサー同士の共同生活や稽古が終わった後のバイトなどが第三者的な解説や彼らをジャッジする言葉を経ずに直接映される。
 そのストイックな映し方は観客にも同様のストイックさを求める。
 「判断するな」と。
 それは怪我の描写についても同じ。
 ダンサーゆえに、怪我とは隣り合わせだ。そこここで誰かが怪我をする。芸術監督は舞台袖にある荷物に「片付けろ、怪我のもとだ! いつも言ってるだろう」と激怒する日常茶飯事っぷり。
 すでに「バレエもの」の物語の型にはまっているこっちは、誰かの足の甲がアップになる度、悲劇の匂いにひやっとする。
 実際、映画の冒頭で他のダンサーの故障で役を得たライが、ラストでは故障で転倒し、先のダンサーに代役を踊ってもらうことになる。
 このいきさつはしかし、因果関係としては成立していない。「奪った役は取り返される」とか、そういう物語や教訓を読むことはこの映画では不可能だ。
 ただただ、ダンサーは故障と隣り合わせで、日々その心配とケアをしているのだが、故障してしまったらしょうがない、という描かれ方をしている。
 すべては一回限りのこととして描かれている。私たちは同じことを繰り返し、その度に賢くなって災厄を逃れることなんて絶対に出来ない。誰にとってもこれから起こることは一度きりの初めてのことだから。そういう「今宵、フィッツジェラルド劇場で」にある哲学を「バレエ・カンパニー」にも感じる。

 すべては一度きりで流れていくということを言葉や映像で「表現」することはとても難しい。
 どんなに前衛的に見える映画にも小説にも「始め」と「終わり」があり、受け取る方はそれをそのまま「因果関係」として捉える癖がついているから、複雑な作品であればあるほど、「○○が△△になる物語」という風に一つの文にまとめられてしまうことから逃れがたい。
 でも、だからこそそこで粘る作家たちのことは賞賛したい。

 アルトマンは「人生」が「物語」として固化したものとして語られることを拒み続ける作家の一人だ。
 誰の人生も繰り返さない。
 一度きりの、変化し続け、いつか失われるそれだからこそ、愛しいのだ。