プール雨

幽霊について

小三治

 祖母は近所・親戚満場一致で「くそばばー」と認定されてしまうような人で、まさか正面からそう呼ぶ人はさすがにいませんでしたが「k……っ」と k 音くらいはそこかしこで聴かれたものです。享年 99。欠礼はがきの印刷を注文したら店員さんに「あら、惜しい」と言われました。ええ、惜しいです。憎たらしくて気の強い、動くものがあると飛びかかる、そんなおばあちゃんが 99 で大往生したら、遺された者の心には一陣の風が吹き、なんともいえないほっとした気持ちが……なんてこともなく、大きな穴が私の体に空いたのです。予想できなかった巨大な悲しみでした。時々そこをトリートメントしないとささくれだったり流血したりするような穴が空き、「穴があるなあ」と思って暮らしています。

 みんなこういう、穴だらけの体で生きているんだなあと思うこの頃です。

 映画監督ロバート・アルトマンは『今宵、フィッツジェラルド劇場で』で「老人の死は悲劇ではない」という言葉を遺しました。そのときは「泣くようなことじゃないよ」という程度の意味と受けとめていたのですが、最近、違う意味に聞こえてきました。「悲劇ではない」というのは、逝ってしまった人が遺してくれた巨大な穴と関係するのかなと思います。「大往生」といわれるような年齢まで生きていてくれた人の死は真っ正面から自分に影響してきます。その人が生きた重みがそくっとそこにあるというか、その影響を意識しながら生きていくことを許可されている感じ、とでもいいましょうか。

 柳家小三治が亡くなってしまいました。

f:id:poolame:20211012142903j:plain

亡くなる前日に「落語が楽しい」とおっしゃったそうです。

 今度銀座で独演会があるので、これはチケットを取ろうかなと思っていたところでした。

 あらためて考えてみると私は「落語が好き」なのではなく、小三治や喜多八といった「好きな落語家がいる」だけでなのです。落語に行きたいというより、小三治や喜多八の話を聞きに行きたいという気持ちで時折寄席や落語会に足を運んできました。だからこのまま、寄席に行かなくなっちゃうのかなと思います。

 小三治が好きなので、改めて、DVD や CD で聴いていくことになると思います。DVD  で落語を聞いていて不思議なのが、「今なんで皆笑ったのかな」と思うようなところがちょこちょこあることです。その場にいないとわからないことってあるのですよね。会場では演者と観客の、ちょっとした視線や仕草の積み重ねでなんともいえないおかしみやあったかさが生じているときがある。それが記録には残らない。それで、記録媒体を通じて見ていても、「今なんで皆笑ったのかな」というところが生じる。そういう場面に出会ったときは「ああ、わからないなあ」とわからなさを味わいます。このとき小三治はお客さんと一緒に話をつくっていったんだなと思います。

 立ち去る人に「悲しみすぎるなよ」とか「悲劇じゃないよ」って言われても、やっぱり、大きな穴が空いています。